紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


たましいだけが

なにか飼いません? と言ってきたのは彼女の方で、ぼくはあーとかうんとか言っていたら、いつの間にか部屋に透明のケースが届き、白っぽい長い生き物が入っていた。賛成も反対もしなかったぼくだけど(すでに時機を逸していたこともあるが)、な・ん・で・? と口だけで言ってみた。彼女は知らん顔で、どうぶつの餌をPCの画面でスクロールしていた。

そういえば、けんきゅうじょ、研究所だということは少ししてから気がついたけど、今はどうかわかんないけど、実験の動物をつくってて、って言った人がいて、むかしはサルがいたりしてね、ほら、ネズミとかウサギは一生が早いじゃない、というのにもあーとかうーとか唸っていた記憶がある。そういうときにどう答えたらスマートかということを考えてしまう。とっさの判断で自分の印象がクレバーかどんくさいかに決まってしまうのではないかという恐怖だ。ヒトに近いとどうしても、ね、の ”どうしても” をすんなりと受け入れられることのどこがクレバーなのだか。

わたしは、この項目がここに入っていることに驚いたし、怒りを感じもした、と言った人はとても正直だった。なんとか部長ときいていたけど思ったより若い。そうとうやり手か人手不足かだろう。両方という可能性もある。きっぱりと判断をくだしそうな人だった。また彼女の薬指の指輪を見ながら、普通の人生が送れる人、の怒りについて考えてみた。

さっき、あなたがいった、ちがうせかい、ってわたしもなんだかわかる気がして、もしかして彼女は別の世界を見てるのかもしれない、その世界はわたしの世界とどれほど違うのか、それがリンクすることはあるのか、重なっていたりはするのだろうか。世界を共有しているようでしてない人がいること、はたまた共有していると思ってる人もつきつめたらそんなわけないんじゃないかなということを思う。でもそれを口にしないことが共有している証左であるかもしれなくて。

雨の日、動悸が早い気がして、自分の鼓動を数えながら、このまま倒れてしまいたい気持ち、なの、と言いたくて言えなくて、傘をさしながら、雨音がぜんぶを包んでいることに安堵をおぼえる。雨が動悸と同じ速さであるかぎり、身体はここにおいて、たましいだけがすると抜けても、アリバイになるような、気がする。それで、ためしに、ほかのいきものの鼓動をききたいと思ったのだった。