紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


世界はズボン2本の男を愛す(か)

こうも、暑い、日々、に。雨のせいか汗のせいかわからないけれど、帰宅した同居人が洗濯機を回しだして。

われわれの洗濯は各自なので、ひつぜん同居人はいつも週末に洗濯しているのが、あらこんな夜中にと思うも話をきけば、「ズボンが2本しかない」と言い出して、それでよぎったのは友人の恋人のこと。友人の恋人––そういえば性別不明問題もあったけどおそらく男性であろうとわたしの中で決着している––もズボンを2本しか持っていないと聞かされ、いやいやでもそれってとっても素敵なんじゃないかとわたしと友人は話し合ったのだった。飽食のこの時代、消費の時代に下に履くものを2着しか持っていない野蛮さ、そしてそれを(たぶん)困っていない鷹揚さにわれわれはくらくらしてしまっていた。

まあでもここでのポイントは好ましく思ってる人間が「ズボン2本男(ずぼん・にほんお)」なのであって、決して「ズボン2本男」だから好きになるわけではないという点であって、恋愛対象にならないがさつな男性についてこの心のときめきは端から存在しないのであった。あばたもえくぼというやつである。

そしてこのときめきの機運が図らずもわがやにも舞い降りた!!!

それでめっちゃうれしくなっちゃってめっちゃ褒めたんだけど(「ズボン2着しかないなんて最高!」とか「しかも限界を考えて自分で洗って偉い!」とか)、怪訝そうな顔をされたし、買いに行かなきゃな~~~と言っていた。

まあね。ズボン2本の同居人を好ましく思うけれど、ズボンを増やして快適に過ごすとしてもマイナスにはならない。むしろ現代人として偉いなあとまたもや褒めてしまうだろう。横道にそれるけど、わたしは(おもに仕事で)ストレスを感じると最寄り駅のユニクロにいっていちまんえんくらい服を買ってしまうので、「仕事終わりにユニクロに行きなよ!」というのがアドバイスになるんだけど(いやしかしこれは消費社会のよくない例)、でも数年ともに暮らしてみてズボン2着ってことはないだろうとも思う。だって、あったじゃん。これまで。最近服を捨てていた気配もないし。

ということでよくよく聞くと「ないわけではないんだけどねーーーーー」という謎の歯切れの悪さ。何があったのか。けっきょく新しいズボンは必要なのか不要なのか!?

そして、「ファッション『ズボン2本男』」を世界は、わたしは、これまでどおり愛していけるんだろうかというよくわからない疑問も出てきたりして。