紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


人生にふれる(とは)

そもそも誰かと仲良くなろうという前向きな気持ちがないのだと思った。自然に仲良くなりたい、みたいな気持ちで。それでニコニコしながら集団を眺めていたりして乗り遅れる。友達、いないわけではないけれど、簡単にできるものでもない。何かを一緒にやった人とはまだたまに会える。でもこの活動がなかったら会わないのかもとかも思う。一緒にごはんいこうよとかならないから交友関係広がらない。夕食は家でとりたいから飲み会よりお茶会がいいな。

自営業的な働き方をしばらくしてみたけれど、向いてないというかなかなか難しかった。自分はそもそも面倒がりやなのでとりかかるまでに時間がかかる。それと、明確な指針がないと動きにくいとひしひし感じる。もうじきまた雇用労働者になる予定だけどどうなるかな。過信も卑下もせず生きていたい。

友人(といっても予定がないと合わないから友人じゃなくて利益関係者かもとか思ってしまう)を手伝いに行って、手や服を汚しながら陶芸をした。素焼きしたものの角をやすりで削ったり、釉をかけたりぬぐったり、平皿をひとつ成形して、残りの時間は絵付けをした。すべてのことが思い通りにいかなくて、というのは素焼きの角は無限にあるし、釉は垂れるし持っている部分には釉がつかないから場所を変えてもう一度ちゃぽんとつけたりして厚くなっていくし、粘土をこねても丸どころか四角になっていくし(やるぞ! という強い意思がなければいつまで経っても薄くならない)、絵って想像したとおりに描けないしそもそも思いつかないし、あとたぶん焼いたら思ってたんと違うってなる気がする。生きるのって、生きるのって、というきもち。これはいつも野外活動したときに思う気持ち。日常生活で思い通りにいかないのはわりと想定の範囲内の気がする。ああでも絵を描いていて思い通りにいかないっていうのはあるけれど。

仮の生活をしていて本番でないという気がしてしまう。のを脱却したいので今年はフィジカル、なのだった。それでフィジカルな場に出てしまえば、思いもかけないことがあり、楽しいが傷つくこともあり、そうかあれは本番だったのだ。皮膚を切られれば痛いのだ。最近ではパッケージングされていて傷つかないようにつくられている場も多いのではという気もする。頭がわくわくしたら、あとはもうちょっとなのかも。

陶芸家の家では昼時に何人かがキッチンに割かれて、できあがるとみんなで食事をとった。人の家の料理という感じだ。誰かが持ってきたコロッケとかフルーツがある。友人というよりは家族っぽい。