紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


読み終わると思っていたがなかなか終わらない。村上春樹を読んでるから村上春樹のことばかり言ってるけど、三島由紀夫を読んでいたときは三島由紀夫のことばかり言っていた。短歌の本を読めばそのことばかり考えている。自分はただただ単純な人間なのかもしれない。

戦争のことにかぎらず、クラシック音楽や昔の洋楽ポップス、海外作家の引用が意味ありげに出てきたりして(作家の引用は衒学的ではと思わなくもないが、気づく人しか気づかないから指摘しづらいように思える)、音楽なんかはすぐに聴けるのだと気づいて、本を開きながらYouTubeで音楽をかける。以前の読書では(『多崎つくる』かなぁ)、そんなことはしなかった。時代だ。しかし相変わらず主人公はスマホどころか携帯電話を持っていない(それは春の川に投げ捨てられてしまった)。本の中で鳴っている曲を聴いているのは少し三次元かも。『騎士団長殺し』は映画化に向いてる気がする。アニメ映画でやってほしい。

YouTubeでかけてみて、面白かったのがこれ。


ABC - The Look Of Love

(CGを使わないで工夫してるものが好きだと思った) 

 

前回書いたことを思い出してみて、悲しみは共通するものがある。戦争とか災害とかね(もちろん個人的な悲しみもある)。では、多くの人が共有できる喜びというものはあるのだろうか。天皇結婚とかですかね。それも考え方によって、忌避したりお祭り騒ぎすべきでないという人もいるはずで、そもそも構造的に喜びは共有できないのではないかと思う(ついでに考えるならば、それと対をなすと考えられている「悲しみ」について、①本当は対じゃない、②本当は共有できない、なんて仮説も浮かぶけれどそれは後回しだ)。

一度に多くの人やものが失われることはあるけれど、一度に生まれることはない(ものが一度にできるのは工場だ)。もしかしたらそれは「春」なのかもと思うけど、人間はたぶんそのサイクルからは離脱してしまった。イザナミが10000人殺すといえば、イザナギが10001人生まれる(生ます?)と言ったというけれど、言葉遊びだなぁと思うのはこんな時代だからですかね。ベビーブームというものもあるけれど、ひとつひとつの誕生はすごく個人的なものだと思う。ひとつひとつの死ももちろん個人的なんだけど、いちどきに失われるときに、それは個人を奪われ、顔がなくなり、全体に飲み込まれてしまうのかもしれない、なんてことを思った。