紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


歴史

村上春樹の小説を読んでいて、急に過去の歴史の話がからんでくるのが何故なのか、これまであまりよくわかってなくて(今もわかっていない可能性はあるが)、今読んでいる『騎士団長殺し』にも当然のようにそれがあり、今回はなんでかわかった気になっている。過去に対する責任のようなものなんだと思う。日本は東日本大震災を経験し、地下鉄サリン事件を経験し、その前は阪神淡路大震災があった。わたしが個人的に覚えているのはそのあたりからなんだけど、地方によっては、またはもっと過去にさかのぼれば色々あるし、もちろん戦争だってあった。わたしの知り得ない個人的な悲しみや別れや傷もある(同じように他人の知り得ないわたしの悲しみや別れや傷がある)。そういった過去たちからは逃れられず、というよりは逃れずに、人生や生活や世界は続いていく、そしてそのバランスが崩れたときにどうやって調整するか、みたいなことなんだと思う。

出てくる人物には個別の事情があり、みんな何かしらの傷をかかえている。現実ではそれを全員分知ることは不可能だけど、主人公は何故か全員の傷についてなんとなくであっても知ることになる。小説だからこその便利な手法ではあるけれど、現実そうなんだと思える。それと、個々人の服装について毎回数行の描写がある。村上春樹はそれを怠らない。ドラえもん的普段着は存在しない。しつこい気もするけれど、それを読んでいるとその人がどんな性格なのか、そのときはこんな気分なんだと想像できる。まあ、描写されてる登場人物が服装で内面をあらわしたい性格なんだろうけれど(無頓着なキャラクターだっているはずだ)。

村上春樹の小説は不思議なキャラクターが出てきたり、異世界にいったり、夢の暗示があったり、ファンタジーっぽさがあって、それらと現実の歴史(しかも戦争とかだし)が共存しているのがアンバランスだと感じていたのだけど、今回はむしろファンタジーでない部分が重要なのかと思った。それは小説に没頭しようとするわれわれを強い力で持って離さない。小説も現実なのだ。

ムラカミつながりで村上龍と語られたりすることも多いような気がしていて、村上龍は現実寄りで村上春樹は荒唐無稽みたいなことを言われることもあるんだけど、そんなこと全然ないじゃんと言いたい。

最初の方を読んでいて、カフカみたいだと思ったら、次の次の章くらいで比喩にカフカが出てきていた。村上春樹カフカの系統を汲んでると思うと理解しやすいと感じる。といってもわたしは『変身』と『城』しか読んでいないのだけど。で、たぶん小島信夫とも微妙な近さがある(はず)。小説に「正しさ」はなくて(すべて「正しい」といえる気もするが)、個人のやり方があるだけという気がする。