紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


ジンジャーエール、氷なし、とは言えなかった

ライブでは何が起こるかわからない、というのは人はいついなくなるかわからない、みたいなものだなぁと思った。最近、少しだけ以前とは違うものの考え方をしてみるようになって、考えてきたことのいろいろがつながるような気がした。その野放図をそのままでいいんだよと言ってきた数年間、もしかしたらずっとかもしれないが、さすがに加齢とともに耐久性が落ちてきたんじゃないかと思った。世界の骨組みが見えた気がした。見えたとしてしたがう必要はないのだけど、つっぱってもいられない感じもある。

好きな服装をするのが一番、とは思うのだけど、「好き」が更新されなかったらずっと若いころの服を着ることになってしまう。好きな服、似合う服、その年代の服、流行の服、何を着ていいかよくわからないままだ。好き、がよくわからないのかもしれない。似合う服を大事に着たいと思う。お気に入りが欲しい。気がついたらセーターが増殖していて、どれかを手ばなそうと思うのだけど、どれもまあまあ使えそうな気がするし、こういう選択ってあとから後悔することが多い。服装に関して何の攻略法ももたない無防備なわたしだ。

三か月ぶりに友人に会って、「髪染めた?」と聞くと、「抜けるんです」と言われた。色が、ということだろう。「そちらは丸っこい髪型になりましたね」今年会うのはじめてではないよね、というところを手探りで確認して、2度目だということがわかった。歩きながらや座りながら色々なことを話した。話はいつも積もっている。

最後に行きついたのがライブハウスで、本日の目的地であるのだけど、音楽を浴びて、いつも聴きながら色々考えてしまうのだけど、今夜はつとめて音に集中するようにした。思考を手ばなすのは少しこわい。気がつけばすぐになにかを考えてしまう。言葉をよすがに、どころか縛られてしまっている。音は時間で、消えてしまう。歌のある曲もあればないものもある。歌のある曲はタイトルをおぼえられるが、ない曲は忘れてしまう。旋律はどれも似たようなものの気がする。楽器が言葉を発していると思えば覚えられなくはないかもしれない。舞台には10人以上いて、統率がとれた集団ではなく、各人好きな音を鳴らしているように思えることもある。あいつ変なことやってるとか、邪魔だな、って思わないような、だれかが快さのために出した音をよろこんで、乗っかったり、自分で音をはじめるような、生まれたての、祝福された音を、毎度毎度出しているのかもしれない。CDも何枚かあるけれど、ライブで観るのが好きなバンドだ。間違えた音すらうれしいのだった。

ふと、ドラマ『カルテット』のことを思い出して、あの人たちは(たぶん)決して上手な四人組ではなく、音楽のやりたさがあり、それがプロというか商業に結びつきたくて(でも難しくて)、みたいな話だったのかなとか思う。楽しく音を出したいのなら、そういう場もある気がした。でも最終回でそこに向かうことに落ち着いたんだったかな。舞台上のシーンの緊張感はなにか別のものを示している気がした。坂元裕二さん、そうえば『カルテット』も『anone』も犯罪を含むよなーなんてことも思い出した。

そう、ジンジャーエール氷なしできますか、って言えなかったから暗闇でわたしのドリンクはどんどん薄く奇妙な味の水になってしまった。