紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


世界の中の(わたし)

こんな写真も行ったところの感想もない旅の記録もなかろうと思う。

小林秀雄が世界の中の日本人(わたし)みたいな文章を書いていたのを思い出す。教科書に載ってたやつ。実感として異国にいるという気持ちはあまりなく、わたしはわたし、平常が続いている感じがある。見える景色や食べ物なんかはまったくちがうんだけど。しかしコミュニケーション、言語がまったく違う人々を前にすると遠い地にいることを突きつけられる。なにか言いたい/言っている(または書いてある)を前にまったく対応できない、どうしようと困る、いままで持っていた皮膚がまったく役に立たないと感じる。傷つけられる(皮膚が(比喩))こればかりは平常の自分ではまったく歯が立たない。微笑んだり聞き返したり知ってる単語を言いつづけたりする。傷ついたそこから皮膚がばりばり向けて新しい自分が出てくる感じがする。変化には言語またはコミュニケーションが必要だ。変わりたいから外国にいるわけではないのだけど、裂け目はそこにしかないような気がしている。また、景色の澄んでいるのとは別に、言語のわからなさによる世界の不明瞭さがあり、いつもなら考えすぎてしまうことがまったく役に立たなくて、このくらいのぼんやりさなら生きやすいかもなと感じたりもする。しかし本当に外国の方、種類が違いすぎて個人として仲良くなれる気がしない。そういう意味でロボっぽく感じる。

子ども用の絵の書いてあるカードを買って、本当は話の順序があるのだけど、裏返しにして4枚ひいて、ひいたカードで物語をプレゼンするという話を即興でして妹のストーリーテラーの才に気づく。胆力がすごい。わたしはといえば「春が来ました」みたいなことしか言えず苦労した。セリフで説明しすぎるのよくないと思ってたけど、それで強引にいかないと全然むずかしかった。