紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


イン・ザ・ムード

雨の降る日があって、帰り道はなんとなく先んじた人の後ろについて曲がってみたりして、知らない道。を。先人はすぐ家だったようで門だろうかガラガラと金属らしき重い音が湿度の高い空気とからまった。悲鳴のような音、がノスタルジーを刺激して、わたし、小学生のわたし、たち?、がひとりでいる、家の夕方の闇を思ってしまって、もう、なんなの、めちゃめちゃに寂しくなった。雨の日はいかんと思うし、そういえば月経の前後は気持ちがめちゃめちゃになるから(月の4分の3がめちゃめちゃならそれは平常という気もする)その一環なのだろうけど、だとしてもやはり打ちひしがれている事実は変わらず。明日にでも、天気がよければ、忘れてしまうこの気持ち、なのかもしれないのに。

来週から少しだけ海外に行く。置いていかれる同居人はひとりだと生活がひどく荒れること、思い出して悪いなと思うけど、ひとりだと生活がおろそかになる気持ちもわかるけど、わたしがかれの生活に責任を持つ必要とかなくて、それは向こうも同じなのだ。いろんな偶然が共同生活を担保している。「偶然おなじ住所なだけだから」というの、事実だし、わたしもそれに加担しているわけだけど、これに対して怒ったり悲しんだりした方がいいのかも、する権利があるのかもと思っても、そのワンクッションのあることで最早すべて演技になってしまう気がして黙っている。そこで演技をする/しないというのもその人間の個性としてありなわけだけど、踏み込めず、わたしはわたしという人間の "自然" を大事にしている。大事にしすぎて崇めているような状態ですらあるかもしれない。難しいな。でもとにかくその事実に対して今のところ何も言わない、権利もないと思っているのはわれわれが共犯だからである。

それとはまた別に生活の実際的な荒廃というのはあるのだけど、そして急にセンチメンタルになったわたしは実際的な離れがたさを思って、あ、いつものやつ、と思う。とにかく分離に対しての不安が強すぎる。エモさといえばきこえがよいかもしれないけれど。考えはじめると別れはこわく、死ぬのはこわい。生きてることも不安があるのだけど、最近は考えないようにしている。あんまりよくないのかもしれないけれど。