紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


七草粥

Oの家にいって、皆でPCを並べて作業をした。前の職場でも前の前の職場でも人々にパソコンを教えていたから懐かしかった。PCとの仲のよさってどこで培われるんでしょう。今考えてみた感じ、アイコンを表象だと理解すること、でしょうか。何言ってるんでしょうね! 専門家たちと比べればわたしは1ミリもわかってないと思うのだけど、一般の人の中ではくわしい方にしてもらえる。なんでくわしいのって言われると、オタクだからですかね~と言うしかない。PCオタクというわけではないのだが、ある時期のオタクたちにとって、好きなものを調べたり発表するためにPCやインターネットは必要不可欠だったのじゃ、という気がする。急におじいさんになる。最近では学校で情報の授業があったりHPをつくったりするのでしょう(逆にもうしないのか?)と思うけど、課題でつくるウェブページと本当に発表したくて交流したくてつくるものでは定着度が違うのだろう。やはりオタク強しだ。しかし今となってはどうだろう。サイトをつくる? ブログをやる? SNSで発信する? SNSにもいろいろありますよね! なんて、今の情報の授業の方が絞り切れなくてなにも得られない気がしますね。わたしのうけた授業ではひたすらホームポジションでの打鍵練習と株を買うシミュレーションをしていました。前者はともかく後者はなんだったのか。でもそれまでは右手の人差指と左手の人差指の計2本で文章を書いていたのが(それでもまあまあ速かったですよ!)、小指まで使うようになりました。めちゃめちゃ役にたったとですけれど。

なんていうか、好きこそものの上手なれ、みたいなまとめ方をしたいわけではなくて、でももう一分野というよりはプラットフォーム的な部分があり、大変ですよね。IT。

懐かしかったのはPCのわからなさの話だけではなくて、そこでなされる会話に覚えがあり、いつかわたしの周囲はそれに満たされ、またはわたしの内部からも滲み出ていたような。遠くあり近くあり憧れてもいたが、それは自分の世界ではないというような気持ちになった。そういえば最近部屋を片付けていたらそんな時代のノートが出てきて、熱心にいろいろなことが書きつけてあって、わたしはその時期のその仕事、じぶんのやっていたことが好きだった、ともかく一所懸命だったんだなということがわかった。羨ましくもあり恥ずかしくもあり時間を無駄にしたという気持ちもあるが、否定する気にはなれなかった。でも遠い話なのでノートは捨てることにした。いつからか仕事は生活の一領域に切り離されて疎まれることになってしまった。過去の方がよかったというわけではなく、そうした変化を目を細めて感じた。

わたしにPCを教わってた人たちもそんな話をするときの方が生き生きとしていて、べつにこの人たちは技術を身につけなくてもいいんだと思った。だってそんなに生き生きとすることがあるんだから。

季節の食事にそんなにこだわりはないつもりだけど、七草粥は毎年つくる。あとは冬至のカボチャくらいか。だけど、自分の気持ちに忠実に食事を準備していたらお粥と野菜たっぷりスープと黒豆(お節の残り)になってしまって、本当にお腹は休めてる? って感じだった。まだ残ってるから明日もお粥とスープになりそうだ。