紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


正月終わった

正月がすぎた。うすうす気づいていたのだけど、どうも正月が苦手らしい。気の迷いかもと思っていたけれど毎年感じる違和感にもういっそ苦手と言ってしまった方がいい気がした。年末年始は休みになるから好きだったけど、お年玉ももらえない今!(何年前からなのだよ)正月にいい顔してやる必要はない。実家に帰らないといけない風潮があること、テレビ番組がおかしくなること、非常な力がはたらいている気がしてしまう。

ここ何年か、おそらく去年も一昨年も書いているような気もするが、実家に帰るたびに気が滅入っている。昨年はひと月近くひきずって落ち込んでいた。もう正月には帰らないと決めていたのに十二か月も経つと記憶もなかば薄れ、家族も「帰ってくるんでしょ」と言ってくるから、帰ってもいいかなーと思ってチケットをとってしまった。でもそれが間違いだったんだな。過去の自分を信ぜよ。今年もわたしは困難な正月を迎えることになる。

あんまり詳しくは書けないけれど、というかそんなことばっかりだけど、実家のハード的な面とソフト的な面の双方からやられる。ハード的な面はともかくソフト的な面において、つまり家族とのかかわりのことだけど、前回まではなかば感傷的な気持ちでもって、自分が抑えればまとまるのかもしれないなんて思ってみたけれど、今年はもういいやと思ってしまった。わたしが抑えて我慢してみても察してくれはしない。険悪になろうがいっそ言った方がましなのではと思う。とりあえず自分の気持ちのみについてならば、そうなんだろうな。それによって何か変わるのかな、不穏になるのかなとも思うけど、今さらかれらに波風をたてるような勇気はないのだった(無視されるような気もするし(それもつらいーーー))。

かれらが悪い家族だなんて言うつもりはなくて、大切な人たちであるけれど、すれ違ってしまったコミュニケーションの型を調整する余地がみられないと思ってしまうので、それならいっそ距離をとった方が楽だと思ったということだ。もしかしたらそのコミュニケーションの型は変わらず自分もその中にいたような気もするし、わたしが家を出た十数年で変わってしまったのかもしれないし、学生時代は実家に帰って心地よかったのは事実で、「本当にくつろげるのは実家だけ」みたいに思ってたけれど、それが今はこちらでの生活になっているということだった。記憶というものは難しくて、昔から蔑ろにされていたような気もしてくるが、そう改竄されているだけなのかもとも思うのであまりふれたくないところ。

実家では自分が昔つかっていた部屋を使えるのだけれど(いつもは母の勉強部屋になっているらしい)、その部屋で青春の鬱々を抱えていたことが思い出されるのかもしれない。あの頃は、なのか、あの家にいた頃は、なのかわからなくなっているけれど、一挙手一投足が抑圧、なにかの疎外を受けていたような気すらする。比べると今はすごく楽に暮らしていると思える。

自分の感じていることが自分の錯覚で、嫌なことを "過去" に背負わせようとしているだけなのではないかという惧れを感じながら、でも自分(の感覚)を信じたいなと思っている。ところ。なにかを失いそうでこわい。なににすがっているんだろうか。嫌いなわけじゃない人たちを切り捨てるみたいでこわい。人間関係なんて息苦しいのが当然とずっと思っていたから、今が楽をしすぎているように思ってしまうのだ。楽だよ。今は楽で楽しい。楽しいなら楽しいまま受け入れたい。と思ってしまう。それはひどいことかなぁ。何に義理立てしているかわからなくなってくる。正月(に実家に帰ること)はそういう関係を直視しなければいけないからつらいのかもな。自分をだいじにする。ああ御免。