紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


実感のある/ない人生

12月って毎年めちゃめちゃで、2018年も例にもれずめちゃめちゃなんだけど、楽しいめちゃめちゃだし体調も今のところ持っているから問題なっしんぐな感じがする。何が変わったか。しごと。もまあマネーに関してはもにょもにょしちゃうけどまあ生きていけなくはないし今年の頭から考えたら思ってもない場所にいるので、い・ま、という観点からいえば悪くない。ていうか僥倖だ。僥倖だよ。いろいろ考えるのは未来の自分にさせている(ずっと)。それで飲み会というもの、ずっと機会がなかったけど、今月はもう2回もいってる、忘年会だよ。飲酒は同居人とするばかりで、いつかのべろんべろんに酔った日が恥ずかしくてそれ以降外で飲まないことにしていて、ていうか職場の飲み会とか旅行とか断っていいですからね(みなさぁん!)、みたいな感じで避けてきて、でもその飲み会、行ってみたい飲み会は行ってもいい、ていうか行った方がいい。トリプルファイヤーの吉田も歌っていたよ「やる気の出ない飲み会は行かなくていい」って。みたいな感じで、たぶん人によっては怒られちゃうんですけどそういう生き方を今できていて、とりあえず面と向かって怒られていないからいい、みたいな感じになっている。

自分は何回か死んでいて、いくつかに分断されている、と思った。たぶん3回は死んでいて、今は4回目(またはそれ以上回目)のわたし、病気みたいなひどい話ではない(つもりだ)けど、記憶のある部分にマスクがかかっている、思い出して、そういえばそんなことがあったと思うんだけど、今の自分の歴史には数え入れない、入れたくない、みたいにとりあつかっている気がする。意図的に無視しているということを忘れないで、隠そうとした姿勢ごと受け入れたいなぁという気がする。そのせい(にしてしまうのは悪いかなぁ)で、たぶん、あんまり本当を生きている気がしていない。ふわふわしている。でも思い返すと最初の分断がとても幼いころだったとして、ずーっとふわふわしてるんだから、わたしの人生はふわふわが実で、しっかりと形があるなんて方が想像で虚では~という気もしてしまう。なんだかね。でもとりあえず今は実感をともなって生きたい気分。同居人をこのふわふわにつき合わせているなぁという気持ちもある。

好きなものを好きといってく、くらいのことなんだけど。わからないことをわからないって開き直れるようになったのは最近のことなので。