紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


読書

あれ書きたいなって思うのはいいけど、後回しにしてるうちに書かなくちゃって思ってそれがつのるとつらくなってくる。書きたいと思った日に書けばいいけど、構成とか頭の中でこねくり回していると重くなってくる。なーーーーー。


穂村弘の『短歌の友人』の2回目が読み終わって、厳密にいうと解説が残ってるんだけど、解説は高橋源一郎が書いている。高橋は自著でもこの本についてふれていて、わたしは偶然それ(のひとつ)を読んでいた。

 

さよなら、ニッポン

さよなら、ニッポン

 

(文庫にはなってないやつです)

これは小説を話題にしてるのだけど、詩と短歌にも少しずつふれていて、短歌の章は『短歌の友人』をとおして短歌の話をしていた。それは「モード(の転換)」の話がメインだった気がするが、読んでから『短歌の友人』を読むとよりわかった気がした(詳細はしないかまたにします)。

少し前に読んでます! つったエントリでは「生きる/生きのびる」の話をしてたと気づいたと書いた。

 

soulkitchen.hatenablog.com

 

その二本立てと思いきや、たぶんもう一本というか底流に流れ続けているものがあり、それは短歌の人が身につけているもの、詠いつづけているもの、すべての短歌に共通しているもののことで、それがなければ短歌ではないというようなものだった(少なくともわたしはそう思えた)。といっても難しいものではなくて、「生の一回性」についてふれている、ふれられている、また歌人が短歌を解釈する時には必ずそれをふまえるということだった。もちろん、違うぜという意見も(歌人の人の中には)あるだろうけど、わたしとしては腑に落ちたというか、前読んだはずなのに読み落としていた(忘れていた)のなんでなんだろうという気もするし、「短歌とは?」に対するひとつの解が得られた気分だった。たとえ57577であろうと「短歌でない」ものをあげることができるようになった(気がする)。(でもそれも残酷な気もする。)若い人の短歌の評釈を読んでるとこの基準を下敷きにしてるなと思うこともある。

あと、短歌って思った以上に引用の文化というか、歌人自体が縦横の流れの中に位置づけられていると思った。誰の流れをくんでいて、自身のこうした経歴があって、、みたいに。文脈ありきというか、ただ一首をみて感じたことがそのまま "正しい" 読みとはとらえられない(もちろん素人レベルだったらいいんだろうけど)。権威的といってしまうと乱暴な気もするけれど、誰でも読める(詠める)敷居の低さを言いながら、全体を見なくてはというとだいぶハードル高いよなーと思ってしまった。でもこれはどの分野でもそういうところはあるのだろうけど! 神なき時代のことをぼんやりと思う。

少し前に古本屋で格安だった短歌の技法の本を少しずつ読んでいて、その人は実作者じゃなくて、でも寺山修司とかとは友達で研究者らしいのだけど(本の成り立ちを説明する部分が学者らしくてよかった)、なかなかいい感じである。少し古い本で少し古い短歌がたくさんのっている。それらを鑑賞している。

それと広瀬正を読みなさいと言われて同居人から借りてそれも少しずつ読んでいる。となりで同居人は三島由紀夫を読んでいる。三島由紀夫今なら絶対炎上するといいながら読まれている。