紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


持ち物考(について考)

物が多いの、べつに悪いことじゃないんじゃないっていう気持ちが去来して、でもずっとその心持ちでいられないから(ギャー捨てたい!!ってときがくるので)よくない。どっちでもいいから気持ちが落ち着いてほしい。ただ、少ない方がどっちにも対応できそうな気がする。若いときは何にも持ってなくてよかったなと思う(この文章は揺れている)。

自分の根幹にかかわるものは無理に手放さなくていいという気がした。目に入るものを "ある" とするの、すごく現代っぽいと思うんだけど、見えないもの、しまっちゃったものも意識の中にはずっとあると考えるとする。わたし達は脳の持つ力の数パーセントしか使っていないとかいって、つまりすごく昔のどんな些細なことだって本当は脳のどこかにあるのだという話。そうだったらいいと思うのは、本当に毎日ぽろぽろと何もかも忘れていっているからだ。物の名前が出てこない、なにをしようとしていたか一瞬で忘れてしまう。忘れてしまうのはこわい。記憶力はいい方だと思っていたからなおさら。でも、忘れたと思っていても、実は忘れていないんだ~よ~という響きは甘美だ。この甘言には乗ってしまいたい。

衣更えだと収納をあけたところ、忘れていたものがぽろぽろ出てきて、確かにこれは脳の働きと同じだ。しかし追いやっていたものが意識の前景に出てきてげんなりもする。自分が持ち物を整理できていないのを突きつけられたような気がする。ここで混同をはじめてみると、一度目にしているのだから、それが押し入れにあろうと、手ばなして別人のもとにあろうと、それは "持っている" ことにはならないだろうか。しまっちゃっているものはどこかにやってしまっても自分のものなんじゃないだろうか。

なんて思いながら、ただ自分の持ち物(のおもに蔵書)のうち、未読のものが多いこと、なんとなくわかってきて、それはまだ自分のものになっていないのではないか。所持はしているのに、これらは自分の持ち物ではないと思ったところ愕然!! 読んだものは手ばなしてOK、思い入れのあるものは無理しない、しかし読んでいないものを手ばなすの、思い入れは逆にないっちゃないけど、まだ得ていないという執着がわいてきて、なかなか覚悟がつかない。べつの決断が必要になりそうだった。

物が多いのだか多くないのだかわからなくて、収納を増やすというのもひとつの手ではあるのだけど。あと、混乱して自分の器が広がればより多く所持できるのでは? という気もしている(ハテ?)。そういえば器をひろげる方法ってあんまりないですよね。見えないものだからですかね、器が!! なんて書いてないで粛々と片付けましょうという気もします。してはいるのですが。