紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


蛇足

個人的なことが文学になる(なってしまう)時代がくるんじゃないかと思っていて、細分化は当然、共感するとか承服しかねるとかの感情もなくなって、”わからない" なんて当然で受け取り方も完全に個人的。まあ当たり前なんだけど。変わらぬいとなみといえばそうかもだけど、個人の感想をたばねるものが(力が)なくなって、それは社会の力が弱まるとかではなくて(弱まってるんだけど)、「そういうもの」だから良い悪いではないんだけど! 「こうよまなくては」という圧もなくなって、わかってもわからなくてもよくて、わからなくても否定とかはしない、ただそこにあるという処理のしかたになると想像してる。

少し前の記事でも書いたけど、高橋源一郎 2 冊読んでたのが一冊読み終わって、わたしは変わってしまった。前回読んだときは得られなかった感触があった。どっちかっていうと読み終わっていない方が肝なんだけど、単行本って手をつけづらいよね。ので、ちょっと、わざと、やってみた節はある。でも ”わざと” でなかったら何もできなかった気がする。し、わざとじゃなくて普通にできた方がもちろんスマートって思うし、そやつは天才だろうし(でも普通にできた顔してわざとかもよー)。方針があって、それに従うのだけど、やっぱりわかんなくなって迷うよ。わたしは迷い子(まよいご)だよと思いながら、これ以上いったら詩だし、いやもはや詩なのか? 無責任な放言のような気もする。詩を詩たらしめるのはめちゃめちゃギリギリのものだと思うけど、短歌を短歌たらしめるのは定型なので、それはありがたいですね。なんか、うーん、むずかしかった(ですね)。わかんないよね。わかんないことだらけだよね。歳をとっても、歳をとったということがわかるだけで、なんもわからないままなんだよね。歳をとるごとに自由になっていくので(いろんな機能は落ちますが)、100 歳の人とかどんだけ自由なんだよと思ったりする。子どもと高齢者は似てるとかいうけど、子ども子ども、うーん、子どもたちの方が色々いわれて不自由な気がする。覚えてないけど今考えたら、ん? ってこと、ありますよね。みたいな流れ。流れです。人と話すのはむずかしー。でもわからないけどいいじゃんっていう時代がくるなら(社会が弱ってるかもしれないけど)それもいいじゃんって思ってる。