紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


ライブに行く人

7月に行ったライブは20年前から知ってる人のライブで、でもその人が音楽しているのを肉眼で見たのは去年がはじめてで、これが3回目くらいでまだまだ新鮮。田舎の子どもだったわたしが20年後にその人の至近距離2メートルくらいでビールをジュースで割ったものをのみながら聴いているという感覚に頭がくらくらした。アルコールのせいだけではあるまい。目を閉じて聴いた。でも見ていないともったいないような気もした。20ずつ歳をとったわたしとその人たちが、紙の上じゃなくて出会える場所だった。自由だった。大人になったなぁ、大人っていいなぁって思った。(この自由さにはネットの普及も関係あるなぁ)

その翌日は別のライブへ。こちらもけっきょく15年は知っているバンドだった。こちらは6,7年ライブに通っているので前述のような感慨はあんまりなかったけど、最初にみたときは似たようなことを思ったはずだった。メンバーのひとりが大病をして復帰したところで、その歌詞に深みが増しまくってしまった。またいつか会える、愛している、生きることはすばらしい、みたいなことが誰にも否定できなくなってしまった。翻って預言者みたいだった。みんな死んでしまうんだけど、生きていないとなにもできない。

8月に入ってからのライブは現在1件で、それは2年ぶりとかで、みるのは4回目くらいだから気持ち的には最近知ったバンドになるけど、そのライブの少なさからめちゃめちゃの懐かしさだった。とにかく演奏のうまさとレアさから非常なエモさ。メンバーは他のバンドとかがあって、もうこのバンドでやらなくてもいいんだという感じがしていて、これが最後になってもまったくおかしくなく、最後かもなという気持ちでいつもみている。活動がつづくこと、生命も似たようなものかもだけど、当たり前みたいに思っちゃうけどそんなわけは全然なくて、基本的にはこの瞬間(とそれに続く短い時間)しか約束できないのだった。それがライブのライブたるゆえん、とか思う。

それから恒例の修業みたいなイベントを2泊3日して帰ってきた。家にいて洗濯を干して食事をちゃちゃっと作って録画の番組をみて寝るみたいな1日ってなんもしてないなって思ってしまった。空白だよ空白。やることも勿論だけど、ふたりきりの生活よりも大きな集団にいてあれやこれやの人間関係、予定、用事、伝言、自分の生理状態なんかと戦っているとスマホをさわる時間もないのだった(家にいるとスマホのチェックを一通りして、さあはじめましょうってなるから主従が逆転している)。とにかく山でのわたしは働き者だった。

今週末も舞台パフォーマンスみたいなの2件みにいくので楽しみなのだった。出かけることが絶対の正しいではないけれど、いつかは終わってしまうそのいつかがいつかはわからないから行けるときは行こうと思っている。たまに本当に出かけたいのかわからなくなって(つまり出かけることが目的になっているのではないか)、そういうときは行動が主でわたしが従になっていがちで、自分が主になるように核があればいいのにと思ったりする。