紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


「読む」という行為

むずかしいことが書いてあったので一度読んだところを少し戻ってまた読んだ。わかるようなわからないような気がした。同じように、めちゃめちゃよいなぁと思って同じところをまた読むこともある。SNSでまわってくる漫画とか、毒にも薬にもならなくて腹が立つのもあるけど、おもしろいのははじめに戻ってまた読んだりする。読んでいるときに脳やらで起きた動きをまた味わいたいのだ。それは甘美なときもあるし怖気みたいなときもある。3文前に「めちゃめちゃよいなぁと思って」と書いたけど、それは実は「めちゃめちゃよい」と8文字で思ってるわけではなくて言葉にできない何かしらなのだ。そのへんの雰囲気をかき集めて「めちゃめちゃよい」の袋に入れる。最前の「むずかしいこと」の書いてあった本にもそのようなことが書いてあって、それが難しい。関連して小説とか詩とかの形式について考えている。同じ本を十年くらい前に読んだときにはまったく理解してなくて、ただそこに書いてあった文字にいちおう目を通した、くらいの読書で、「読書」とひとくちにいっても実はいろいろあるのだ。

小学校の国語には「音読」という宿題が必ずあって、教科書のどこか(学習している箇所)を声に出して何度か読まなければいけない。指定が5回ならそれ以上の何回読んだっていい。それを親(お家の人)に聴いてもらって、教科書のタイトルの右上に正の字を書いていく。毎日読むから正の字が増え続けていく。思い出すのは、ある日その課題が楽しかったのだか妙な義務感が出たのか忘れたけれど(両方なのかもしれない)、調子にのって何十回も読んだことがあり、三十回だったか五十回だったか、キリのいい数字が近くなると欲が出て、「★十回までやろう」とか思ったりして、親も迷惑だったろうと思うけれど、とにかくそのやりすぎた宿題に対して、同級の子に「嘘だろう」と言われたことがあり、悔しかったと思うのだけど、その義務感から生じた音読は形式をなぞったにすぎなくて、意味ないよねと今は思ったりする。

そもそも「音読」という宿題自体がふわっとしていていかんとも思うんだけど、「情景を感じながら」とか「内容を考えながら」とか言われていればそれなりに感情もこもるだろうけど、「音読」という行為には形式をなぞることしか含まれていないように思える。だから、小学生のわたしの宿題は間違っていなかった(はず)。でも、それでいいの、とも思う。形式(音声)と内容に関連性はない、しかしそこに連関のあることを想像しながら日々ことばをつかう。あ、これシニフィエシニフィアンの話なの? シニフィエシニフィアンの話も何度聞いても混乱するんだけど、対になる言葉っぽく見せてるけど、違くない? っていうのがなんかわたしの感覚ですね。これもまた十年くらいしたら意味がわかるようになってるかもね。昔わからなかったことが自然とわかるようになるの不思議だよね。概念が身体になじんでくるのかな。

あ、違う違う。一所懸命理解しようと一文字一文字読んだりするけど、自分がブログ書いてみると、一所懸命書いても雑に読まれたりするし、一所懸命読んでも書いてる方は「一所懸命になんて読まないでくれよ」とか思ってめちゃめちゃを書いてるときもあるし、彼我のテンションが完全に合うことはないよねみたいなことを書きたかったんでした。内容はそこ(文字)にはないのに、内容を求めて文字を文章を矯めつ眇めつしなくてはならない。矛盾の感じがある。コミュニケーションなんてそんなものかもしれないけれど。わたしは根がまじめだからまじめに読んじゃうけどね。まじめな分、肩すかしされると「……っ!!」てなるし、「いやいや、そんなはずはない」って思って深読みしちゃったりするからね。なんてね。なーんてね。