紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


バーモント・キッス

そうたいせいりろん、知っとる? って聴いたのはいつだったかは判然としないけど、あの部屋に住んでいた頃だとはうっすら思う。わたしはパソコンを持っていなかったから、友人が共用でつかっていいといってくれたノートPCをほんとうに自分のもののようにして、動作がおっそいんだよねーとか思いながら、でも動画を観たり、音楽を聴いたりしてたんだから、そんなに悪くはなかったはずだ。陽のあたる側には全面にガラスがはられていて、でも普通のサッシ窓ではなくて、立方体のガラスが嵌め込まれているので、風景は(といってもなにもはっきりと見えなかったが)複眼のように同じものがいくつも見えた。

相対性理論がいいんよね、とその人はいって、それは何? と聞き返してバンドであることが判明した。ほかにもいくつかやりとりがあったけど忘れた。それである夜の散歩のときに、駅まで歩いていってTSUTAYA相対性理論を借りた。「シフォン主義」と「ハイファイ新書」があった。わたしは体力がなくて、15分歩くのも必死ですぐに疲れてしまったから、駅まで歩いていったことはほとんどなくて、自転車で行ってもいいんだけど駐輪場の整備がされていないからみんな駅前に乱雑に停めていて帰りに見つけるのが大変で、それに気を抜くとすぐに持っていかれてしまう無法地帯だった、じゃあふだんどうしていたかというと5分くらいのところに別の路線の小さな駅があるので、定期もそこからにして乗っていたのだった。TSUTAYAに行った感じとか、隣の本屋兼文房具屋の雰囲気はなぜか強く憶えていて、ちょうど角っこの手前側に "そ" があって、そこで見つけたCDと、ほかの気になる頭文字たちを指でさぐり、店内の照明は暴力みたいにぎらぎらで床が照り返しでつやつやしていた。わたしは足もとをよく見ていた。

それを耳元できいた感じ、思い出せるような気もするし、そのあとに自分のなかでつくってしまった感覚のような気もするけれど、一周が短くて何度も繰り返しきいたことと、ヴォーカルの女性の息継ぎが気になったとかそんなことで、今聴けば曲の感じとかハモってくる男性の声とかが気になるんだけど、息継ぎも変わらず気になるけれど。

あれからだいぶ年月が経って、やくしまるえつこはだいぶ歌が上手になってしまって、息継ぎもまだしてるみたいだけど、ハモってた男性はいなくなってしまった。ライブの冒頭でとつぜん、啓示を受けたような、ことを、言ったりとか、わりと特別な場所にいるのではと瞬間に思わせてくれること、あの頃と分断されている気がして、うまく消化できていないなと思う。

 

わたしもうやめた 世界征服やめた

 

は、「バーモント・キッス」(曲名)の冒頭で、

 

今日のごはん 考えるのでせいいっぱい

 

と続く。わたしはこれは主婦の歌だと思ってたんだけど(そうじ洗濯めいっぱい、ってこの後にあるから)、皆様そうでもないらしく、たとえば大学生が野望をあきらめる(ワナビーから現実にめざめる的な)みたいに読む向きがあって、そうしたら挫折(なんて言ったら悪いけれど)の文脈で、人々は過去(または現在)の自分と重ね合わせているんだろうか。言葉遊びに意味なんてないといえばそれまでだけど、にんげん、意味をよみとりたい生き物であるわけで、全編通せば恋の歌なのかとも思うけど、しかしこの歌い出しは強烈だ。ワナビーをやめる、といえば青春をあきらめたって感じになるけれど、逃避の恋愛をやめて現実に向かうと思えば前向きだ。恋をして、いろいろ理屈をつけてたけれど、神様に逆らうのをやめた、ってことなのかしらん。などなど。