紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


過不足のない

ふと目が覚めたら夜の2時で、同居人は隣にいなくて、まだ起きてるのかと思ったら水の音がきこえてきてトイレだった。戻ってきたらタイマーが切れたエアコンをオンにして、もう一回ピッてしたのはたぶんタイマーで、なぜならまたその二時間後に暑くて目が覚めたから、律儀な人。長い長い文章を読み上げて、それはとても曲がりくねった文章だったのだけど、読み終わった後に「いい文章ですね」「名文」などと褒められてそれはわたしの文章だった、という夢をみた。

 

文章でも音楽でも映画でもなんでも、おもしろい/つまらない以外に、というかそれも含まれてか、適度である、というのがあると思った。これはけっこう受け手の裁量もかかわってくる。読んでて・聴いてて・観ていて、いいぞいいぞもうちょっとだ行けー! って感じてるところで急に終わってしまうと「足りない」と思ってしまう。それまでは好みなのだ、でも足りないから惜しい、と思ってしまう。体力ないのかなとか思ってしまう。おもしろいと感じるのに、総評するとおもしろいに入れられなくて勿体ないになってしまう。その反対で、やりすぎやりすぎ、もーギブ! っていうのもやっぱりあって、それは過剰だなぁ、と思う。つかれる。過不足を感じない、ちょうどいいときはそんなことを考えないから、やっぱり過不足ないのがいいんだろうな。たまにならいいけど、あるものあるものやりすぎだったり足りなかったりすると、あ、この作者とは相性が合わないって思ってしまったりする。

上級者になると、「自分的にはもうちょっと(あったらいいん)だけど、作品的にはこんなもんだよね」という上から目線も飛び出す。過剰をその人の本質とみるかサーヴィス精神とみるかでまた少し違ってくる。わたしはどっちかっていうと少しサーヴィス過多の方が好きだな。でもブログは少し抑えて余韻を残した方がいいなと思ったりする。絞られて無駄のないことは不足ではない。