紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


いつわりの看板

休日だけは元気で、久しぶりに自分のブログをみたら、「紙とくまの生活」と書いてあって、いやでもしばらく同居人のことを書いておりませんで、看板に偽りあり、と思ったのだった。ふつうに、つつがなく、暮らしている。最近は意味のある言葉を発することも少なくなっていて、たがいに雰囲気をよみあってのコミュニケート。日々クイズ。発話の裏の裏を読む。

言葉なぞ信じない、と思った深い亀裂があり、それが実現したひとつのかたちであるから、文句をいうつもりはないが、それでも、これでいいのかと首をひねりたくなることもある。生活および人生の一部を賭けた実験をしている気分。前述の状況から「こういう実験をします」という宣言もないし、種明かしをしたら怒られそうな気もするし、怒られそうな気がすることはまだまだあって、怒られないような気もするし怒られるような気もするしで数年経ってしまった。怒られなければそれではこれからも共同実験者として手を取り合っていきましょうとなるし、怒られたら、または気分を害されたらどーなっちゃうんでしょうねという感じ。たとえ前者となったとしてもどこかのタイミングで飽きたから協力をやめますというのもありで、その場合、わたしはひとりで実験を続けるんだろう。そうならないために踊り続けるか、そうならないために踊り続けるか、みたいなことを考えたりもする。

 

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最近はバナナの食べやすさ(はたまた人間の手がすごいのか)の話をしていた