生きている
はじめにコンセプトがあった。
ので、それを離れるのはいいのかなぁという気がしてしまうのんだけど、
つまり、顔のない人(たち)であろうとして、名前も場所もはぎとってしまって、
(そもそもそれが自分の自意識と相性がよかったのもあって)
どこにでもいる、どこにでもいない人、全体性と一回性の同窓会みたいな気持ちであったけど、
どうにもむにゃりむにゃりと、"わたし"が顔をもたげてきて、どろどろと滲み出てきて、
わたし、という一回性を社会に、なんておおげさでないけれど、捧げること、たまになら、相手も一回性を持つものなんであるし、別にいいのかなと思ってきた
というのが昨秋から最近にかけてゆっくりと考えたこと
(結論ありきという気もしないではないが)
わたしには身体があり、生きていること、実は生きているのだということ
いっとう拒否していたのは自分なのだからひとり相撲ではあるけれど、そんな気持ちであることです