紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


もったいブル

今まで、というか以前、わたしに「あれやこれや、できる?」ってきいてきた人、こうすれば可能と思うよとか教えたの、けっきょく実行にうつされなかったの、いくつか、いくつもあって、あれはわたしに次の一歩を持ってきてもらいたかったのかしらん、と思ってみたりする。そういうの、いくつか蹴っ飛ばしてきちゃってる気がするけど、そんなコミュニケーションあるかよとも思う。「やりたい」主体はその人であって、わたしは考えを述べたまでだ。そのやりたい、がわたしに伝播しドライヴするとお思いか?

しかしその方法が通用しているから無くならないのではないか。わたしが不感症もしくは大切な何かを見落としているんでなかろうか。ほんとうはなにかを感じとるべきだったんだろうかみたいなことを考えはじめると止まらなくなってしまう。

子どものころの遊びとか、あともう一回誘われたらイエスと言おうとか思っていて、でもそのもう一回はなかったりして、絶望的にタイミングが悪いのだけど、世界はわたしを置き去りにして進んでいくのだから、わたしの態度がよくなかったのかもとか、なんだかそんな風にしてここまできてしまった気がする。今はもう大人だからやりたいことはもったいぶらないで手をあげようってわかってるのだけど、興味なくはないけどそこまでではないよなっていうことは迷ってるうちにお誘いが来なくなっちゃう、の、あとで悔しいなと思ったりもして、そう思うならそう思った時点で仲間に入れてもらえばいいのだね。今書いてて思いました。そんな人間下手な感じで生きている。

もしかして、ここの仕事は簡単すぎましたか、とか言われてみて、そうだったんだろうか、仕事が終わらなくて残業していた日々があったけれど、あれは簡単ではなかった、とはいえここでの仕事について問われると「何もしてません」と思ってしまう。ただそこにいただけだった。仕事をうまくラベリングしてほしい、もしかしたらそれは自発的にやるべきことなのかもしれないけど、上長もだれも知らない(名づけようとしない)ふわっとした日々をただ渡すのは無責任のような気がした。勝手にやりたいけど、面倒はしっかり見てほしい(勝手!)。でもきっとそのやり方でがんばれる人もいるんだろうし、そしたら上長達の仕事に対する考え方とわたしのそれは違うんだろう。みたいなこと、逡巡し、答えは出ず、結果だけが実になって行く、果実。選ばれなかった道のこと、迷っていただけの日々はどこにも残らず忘れ去られてしまう。わたしはその、道路の脇の出入り口のない小屋にでもいるような気持ち。ひっそりと息だけしている。今までもそうで、これからもきっとそうなんだってこと、認めないといけなくて、頭のどこかではとっくにそう諦めているんだけど、でもまだなんとかなるんじゃないかと思っている。甘えたがっている。自分に。なかなか。なかなかだな。