紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


わたしだけのエモ

ひきつづきエモめな気持ちでいる。気候も関係あるかもしれない。寒さはすっかりやる気をなくし(もう寝る時間なのかもしれない)、季節のネジがゆるんでくる。意図せずと、わたしのからだもゆるんでいる。暮らすのが楽だと楽だ。しかし花粉症の人は憂鬱そうなのだった。

具体的なことを書くのは苦手なのだけど、以前の職場の人たちのことを考えると、ものがたりの人たちみたいでキュッとなる。エモさが増す。わたしがその人たちのことを愛おしむとして、たぶんそれは物語的だからだろうという気がする。かれら彼女らにかかわらず、すべての人は現実と切り離されると物語的になる。自分の影を切り取って空へただよわせる(『モモ』だ)ような、その影は甘く優しく辛く悲しくわたしの心をくすぐる。実体は嫌になることばっかりなのに。

自分に恋愛というものはないのかもと思いたくなるんだけど、なかったら悲しいからあるのかもしれないとも思ってみる。でもない方が楽だなとも思う。恋愛感情、ほかの感情もそうだけど、全員が全員ちがう主観を持っていて、それをひとつのくくりにいれるの随分と乱暴だと思う。嬉しいとか緊張するとか悲しいとかキュンとするとかの些事をまとめた次元の違うものなんだろうと想像するけれど、その中身は人それぞれだった。すべての(もしくは統計の)データを集めて、そこまではいいけどそれを個人に帰すことってできるんだろうか。クリスマス会のプレゼント交換みたいな気もする。みんなの感情を集めてもみの木の下において、時間がきたら適当にぐるぐる回す。歌が終わったときに自分の手元にきたものは(だれかの)感情ではあるし、「プレゼント」ではあるけれど、自分の感情ではない。でもそれを抱えて帰らなくてはいけない。プレゼントだったら嬉しいものが入っててにこにこ帰ることもできるけれど、承服しかねる誰かの感情を押しつけられて納得はできないのじゃないか。でも雑誌とかインターネットとかで統計を出されたり(ときに統計ですらないこともある)、みなさんこうですからーと言われたらそんなものかと思ってしまったりもする。不思議だ。