紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


遊んで暮らして

前の職場の人に久しぶりに会って、同じくらいにやめた人たちで、それはそれなりに楽しそうにやっていた。なんでか知らないけど、いろんなフォーマットは似せてつくられており、慣習なのかとか思う。親となった職場だってえらい人が昔いたところのフォーマットを借りてきていたし、そういうものなのかな。劣化コピーというと嫌な気がするけれど、コピーってそもそも本物に対しては劣化しかしないからしょうがないと思うけど。遺伝子だってそうだし、コピーとミックスで強みがうまれるんでしょう。きっと。

いろいろ、まあわたしを心配しての金言とかあったんだろうけど、それは"社会"そのもので、うがちすぎではと思ってみたりもするけれど、わたしは"わたし"に対峙するだけでいっぱいいっぱいなのでこの上、社会とまで向き合っていかないといけないのかと思うとむーりーむりむりーって思う。笑ってやりすごす。(でもたぶんわたしが大げさに考えすぎているだけで些細なことを言ってるんだろうなと思ってもみるけど。)社会との折り合いの付け方わからぬまま齢だけ重ねてしまう。いやいいんだよ無視して、とかも思うけど堂々巡りだ。

 

「見てる人は見てるよ」のあとに「見てない人は見てないだろうけど」とつけくわえたの、なにもいっていないに等しい。ただの事実。たぶん、後半を言わないのはそれは当たり前のことなので省略されている。しかし、発言した人の頭の中に前者しかなかったとして、それをこちらが了解することは難しい。「見てる人は見てるし、見てない人も見てるよ」と思ってたら、わからない。ていうか後半も言えよって思うな。思うね。だからやっぱり後半は言うべきか、当たり前だったら省略していい。のだけど、口に出さないと気が済まない性分である。なにかを同定するようで、ちょっとタンマっていって平常の地平に引き戻す。そりゃあ議論は堂々巡り。いや、自分を批判したいわけじゃなくって。この後半をつけくわえることの意味、なにかないだろうかな。