紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


原稿用紙、あるいはコミュニケーションゲーム

正月あけてより、雪も降ったしそれはまあ寒いは寒いんだけど、底を抜けて明るい寒さという気がしていてあまり苦にならない。植物は春のために蕾をつけはじめている。わたしも準備をしている。

 

ファミレスで食事をし、ひとわたり話もし終わったぞというタイミングで、「今日はこれを持ってきています」といって、原稿用紙を出す。まさかこの帳面を買う日が来るとはなかなか想像していなかった。学校には無限にあったそれ。教室の棚に無造作に積まれていた。原稿用紙をわら半紙に刷ったものを「漢字練習」として提出させられていたことがあるのだけど、それはさすがに荷が重い気がする。マスが小さいんだよ。さすがに平成三十年に買ったそれは白い紙、つるつるでわれわれをわくわくさせた。

筆記具も配って、各自でなにがしか書いていく。枚数は自由、内容も自由、前もって書いてたのを転記でもよい。で、一時間。読んでもいいか断って、読みあって、感想を言い合う。相手のことを知れて、結果的にコミュニケーションゲームみたいだった。

たしかにわたしはブログを書いているけれど、知ってる相手に文章を読んでもらったこと、なかなかなくて、感想をもらえることも基本的にはないのだった。率直に「読みやすいけどわかりにくい」と言われてちょっと笑ってしまった。読みやすさとわかりよさは一致しないらしい。たしかに独りよがりな面はあって、ブログに書いているとそれは投げやりにそのままになってしまいがち。ていうかそれを自分にゆるしていた。文章を飛ばす、論理の複雑骨折、用語のぶれなんかどんとこいだったの、不親切なんだとわかった。

でも直すかといえば、やるかもねーくらいでへらへらしちゃうの、甘えという気もするし、どれだけこちらが手を尽くして書いてみたところで伝わらないものは伝わらない気がした。なんていうか、読んでくれる人って幅が大きすぎる。ふだんのブログを読んでいる人って、想定自分で、自分が他の人の日記を読む感じで想像してたけど、たぶん、全然ちがうんだろう。だからたぶんわたしの書いてるうにゃうにゃも通じてないだろうし、わたしが読んで読んで「あーわかるー」って思ったのも書いた人と話してみたら違うんですけど!! ってなるんだろう。たぶん。前者はともかく後者はすこしショックだったけど、でもしょうがない。しょうがないよね?

 

たくさんの人に広まっているもの、好まれているもの、はどんなものでも一応はすごい

 

それと、原稿用紙に書くこと、身体をつかって書くこと、もちろんキーボードの打鍵より遅いし、書いている手がつらいからはしょったり簡潔に書いていく。ふだん自分の書いてるような接続詞とか糸の絡まったような文の運びはしない。だってつかれる、というのがあってこれは身体性という気がした。もうちょっと細かく言うと、鉛筆(シャープペン)、ボールペン、万年筆なんか書き味がちがって、これも文章や思考に影響を与えると思った。ともかく、わたしはPCで思考に近いスピードで文章をつくるよりはまどろっこしくない文体だった。当たり前といえばそうなんだけど、これは発見だった。この文章ももう一度手で書き直したら、ずいぶん簡潔な文章になるにちがいないよ。