紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


鍋にしましょう

恋人に嘘をつかれていた時間のことを思い出すとそれなりに胸がいたんだりもするけれど。すべてが感傷のような気もする。嘘はすでにわかっていてそれを言わせたかったのに決して口を割らなかったのはプライドだったかもしれないし優しさだったかもしれないと思ったりもしてみる。けっきょく言われたところでもうどうかしちゃってただろうし、それでよかった。結果ね。

嘘をつかれるのはつらいのだけど、嘘をつかなきゃいけない方だってつらいみたいな顔をして、それが優しさかもと思えばそうかもしれないし、でも頼んでないし、「殴る方だって痛い」みたいなものと思えば同情はできなくなってしまった。「怒りたくて怒ってるわけじゃない」「殴りたくて殴ってるわけじゃない」「嘘をつきたくてついてるわけじゃない」エトセトラエトセトラ、「したくてしてるわけじゃない」の救済ポイントはどこかにあるのだろうか。

なんてことを考えたりするのはわたしが優しいからではなく、自分がその立場になったときの逃げ道を確保しておこうとしているからだと思うよ。

実はそのとき、わたしも秘密を持っていたとしたら? 嘘ついていること、ばれてなかったら嘘じゃないのだやっぱり。っていうのはどこかいがんでる気がするけれど。嘘はそもそもばれないようにするもので、それがあるってことは本来的には隠されて、みんなその周りをぐるぐるとまわっている。嘘の実在が確信されているのはなんでだろう。無意識より意識にのぼっている。カフカの『城』的なもの、ほかにもたくさんたくさんあるんだろうけど、「嘘」の価値をそこまで貶めてしまったのは。ばれるようなところに嘘をおいておく人たちのせいかなぁ。でもこの言い方は自分は上手に嘘をつけると思っているみたいだね。自分をすぐにその他大勢に溶け込ませようとする努力。無駄かなぁ。でもそこまで自分を特別だとは思えないんだよね。

 

あかんこの寒さがどうかしてるから鍋方向へ急カーブする