紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


銀行に行った日

ブログの書き方わかんないままなんだけど書く。書く余力があるときは書く。

 

 

今日は木曜日と気がついて、わたしの月火水はどこへ行ったのか。たしかに存在していたけれど、それはどれも同じようで、休日の栞がなければ変わらぬ日が何日も続くのだろう。

天候、ゆっくりとまたは急激に変わるがとりあえずその変化はつながりをもつ。が、起きれば風が強く吹いていて、天候に栞をはさむのも人間の休息であった。一日の区切りは人工的で(かつては太陽と地球とでつくっていたのだが)、意識でもって時間を区切っている。

風がやまないまま午前は書類整理とインターネットのあれこれとか。風はそのままの午後は出かけて些事を、ほんとうに些事をかたづける。振込とか、郵便を出すとか、銀行に行くとか、買ったものを返品するとか、めがねの修理を頼むとか、カードを忘れたときのポイントをつけてもらうとか、コンビニでコピーをとるとか。よくもまあこんなに些事が列をなすという感じだった。のにぜんぶチェックがつくとすっきりする。ちなみにめがねの修理はできないといわれたので、マステで補強するという自宅仕様の処理をした。わはは。

 

音楽はずっとなっているのだと思う。ことは漠然としている。それでかまわないのだけど、少なくともふたつ、具体的に想像している。流れ続けているのを聴こえないふりをしている音楽。または生活の根底に流れているささやかな音楽。どちらも気がつかない(気がつきにくい)のは同じなのかも。ぜんぜん具体的でないですね。

 

いろんな話をきいたり想像すると、意外とみんなロボじゃないのかもと思えてくる。ロボだと思っちゃうのもロボになりたいのもわたしだけなのかもしれない。

 

時間があれば『暮しの手帖』を読みたくて、美味しそうなものがたくさん載っているからよい。し、読者がつくる前提なのもよい。「林檎の蒸しケーキ」をつくってみる。ふにゃふにゃだ。自宅おやつくらいならばかまわない。実は昨日も林檎を食べようと、剥いて切ったのをレンジにかけていたらタッパーがとける大惨事を引き起こして(最近レンジが反抗期なので、、)しまって、あんまり認めたくはないけれど、クラッシャーの才能があるのだよね。いろいろ前科がある。黒こげの林檎はとうぜん食べられずああ供養、って感じだよね。こんなもうめちゃめちゃ夕食の時間なのにね。おやつの話をね。しちゃうよね。