紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


駅の近くのサ店

店がどこもいっぱいなのに驚き、そりゃあ日曜日のお昼時だもの。世界はわたし達だけではない。大テーブルでの相席なら、と言われたのをことわって商店街の終わりの方へ歩く。信号を渡ったらカレー屋がある。その直前で左に曲がって、そういえばここには昔ながらの喫茶店があり、一度だけひとりで行ったことがある。

のぞいてみるとまったくの空席だった。うすく煙草のにおいがする。テーブルには灰皿が置いてあった。小さな店は客席の間もせまい。人形の家を大きく引きのばしたみたいだった。カウンターの向こうには大きな棚があり、ぎゅうぎゅうに食器その他がつまっていた。地震が起きたらどうするんだろうと思うくらいに。物がたくさんあることを悪いなんて一ミリも思っていない。色のついたシャツを着たおじさんとおじいさんの中間くらいとおばさんとおばあさんの中間くらいの二名でやっているようだった。前に来たときもそうだった。

おしぼりは温かかったが水はよく冷えていておいしくなかった。水道水の美味しくなさを引き出すのがとても上手という文句を考えて、できるだけ口にしないことに決める。家の水だってもうちょっとおいしい気がするんだけど。注文を待っている間に客が入ってきて、店はおお盛況という感じになった。いずれもひとりの年配客で、慣れた様子で注文した。常連なんだろう。席は半分あいていたけれど、パーソナルスペースを考えるとこれが適正人数と感じる。店内を碁盤に見立てて、四隅にひと組ずつ配置。次に誰かが入ってきたら均整がやぶられて、対局がはじまるのだ。

ヒナ氏はカレーを、わたしはオムライスを頼んだ。この人、ここ一週間でカレー6回めじゃないんだろうかとこっそり数える。あの店に行ったせいでカレーブームが訪れている。詳細はのちに譲る(かもしれない)。運ばれてきたカトラリーはスプーンが2つ、小さなフォークが1つで、顔を見合わせる。どういう算段なのか聞いてみたかった。スプーンでサラダを食べていたが、店員の不注意によるものだったことがわかった。

カレーがテーブルに来たあとで、カウンターの内側で油ものを調理している音がきこえてきた。今、米をいためている。今、卵を焼いている。運んでくるタイミングを合わせるという意識もなく、セットのドリンクを「いつお持ちしますか」と形だけだとしても尋ねないところとか、めちゃめちゃ美学。ただのずぼらなのかもしれないけれど。いやしかしこれだけ年季の入った喫茶店で媚びない感じはもうそれが店の売りなんだろう。

 オムライスはケチャップ過多で、美味しい範疇に入るが自分ならこの味付けにはしない。友人の家で「食べていきなよ」と言われて出されるような。その家の個性のような味だった。一般の飲食店で出される「正解」ではないだろう。添えられた育ちすぎたパセリも自分勝手さを感じさせた。しかしそれだけが稀有なこの店がたいへんいとしい。ほかのテーブルの常連たちもそこにやられちゃってるのだと勝手に思う。

紅茶は砂時計とともに運ばれてきた。「3分計」とシールがはられている。砂時計が落ちたら飲み頃というわけ。砂が円錐にへこんで落ちていくのを眺めながら待つ時間というのは有難いもののように思える。その三分をぼんやり待って、ポットから紅茶をそそぐ。紅茶って「紅」いよねえって最近になって思うようになった。香りがたっていい感じだ。不思議なことに紅茶もコーヒーもおいしいんだ。水はまずいのに。

用のすんだ砂時計を何度かひっくり返しながら紅茶をのんでいる。紅茶を蒸らす時間が三分ってだれが決めたんだろう。一日が二十四時間なのは人間の都合だから、三分だってつくられた時間で、それに紅茶側が合わせてくるとは考えがたかった。目安としての三分、なんだろうかとか思いながら徒にiPhoneのストップウォッチ機能を起動、砂時計と競争させてみる。一分、二分、二分半、と砂は順調に落ちていった。祈るように目が離せない。結果をいうと、3分12秒だった。ニュースでやっていた陸上の人を思い出した。時間とはなんだろう。入口近くの柱時計がふと一回なって、ああ二時半ねとわかって席を立つ。でも一応とiPhoneをみれば、「14:26」なのだった。時間がゆがんでいる。稀有な店だった。