紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


正しいらしさの夜

気持ちと身体と行動が完全に行き違うというのを久しぶりにやって、つまり、行きたい遊び場があって、しかし身体はつかれている、夜遊びは行きたい(明日の)仕事は行きたくないというふうにはさまれて、行きたい気持ちはわかるけど、疲れているのだよ休みたまえという身体の要請があり、でもそれが行きたくないものに行くために行きたいものに行かないというのはおかしいと思い、しかしのろのろと立ち上がれず「行かないぞ」と口にしてみたりして、一度は部屋着に着替えかけたりして。だって、今の時間からならお風呂に入ってヒナ氏の帰りを待つのが絶対に正しい。早く寝られるし。睡眠って最高だし。それなのに脱ぎかけた服をやっぱり着て、ちょっと外に行ってみるだけだから外の空気は気持ちいいかも。自転車に乗らなくていいんだし、気が乗らなかったら近所を一周して帰ってきたらいいよとか自分に言いきかせながらあれよあれよと自転車に乗る、駅につく、電車に乗る、乗り換える等して頭は納得していないままに馴染みのない街の夜にたどり着く等。駅への途中の公園で親戚一同めいた人々が手持ち花火をしていたのを横目にそれだけでもこの外出は成果ありとか思ったりして。

そんなふわふわした気分で行った先では好きなバンドの面々が変な歌をうたっており、わたしはたいへんに楽しいのだけど、ライブハウスってそもそも自分が自分じゃない感じが強くする場所で、日常ではない色の照明に照らされて、ビールをジンジャーエールで割ったものを口にしながら知らない人たちの中にいて、本日の一連の流れが夢と言われてもしょうがない気がした。それで、変な歌に手をあげたりするのを見ながら、バンドマンにも「正しさ」みたいなものがあって、愛だの恋だの友情だの歌わないといけないの様式美みたいなものなのかもしれないと思った。わたしたちがマイクを向けられたらよそゆきの言葉をしゃべるみたいに。信じているふりをしながら正しいらしさはつくられていく。バンドマンも自由じゃないんだ(かもしれない)と思った夜。