紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


神のTwitterはみなフォロー

臥せっている間に雨雲がやってきて季節を夏へと塗り替えてしまった。ぬるいとしかいいようのない空気は湿気ていて皮膚にまとわりついてわたしを疲れさせる。でも呼吸は楽な気がする。それでこの体調不良はどうにも夏バテのようだと気がついてからあわてて肉を食べている。豚肉がきくような気がする。肉食にこだわりがなくて、豆腐とか納豆とか卵で栄養バランスのタンパク質の欄を埋めていたけれど、けっきょく元気が出るのは肉なのではないか。もぐもぐ。

休んでいる間にしかし眠れず眠るのにも体力が要るということを実感し、ネットフリックスで映画を観はじめたらそのまま四本続けざまに観たし、合間に本に関する本を読んだりして現実ではない現実に引き戻されてしまった。映画を観ること、本を読むこと、文章を書くこと、絵をかくこと、料理をすること、食べること、歩くこと、すべての生活がわたしのもとに戻ってきた。もしくはわたしがそこに戻ってきたのであった。外国の本について書かれた本を読みながら、頭の隅の方で考え続けていたことが刺激されてなにがしか答えが見えてきたようだった。

前述の生活に対置する概念はわたしの中で仕事(をすること)であって、はたらくこと自体は嫌いではないのだけど、今現在の仕事は生活のための仕事であって、さらにわたしから時間と生活をうばうのであった。そうして仕事は間違っていて、それ以外は正しいという二項対立をえがいていたのがどうも違うんじゃないかというのが頭の隅で出されかけている解。乱暴にいえば仕事の軸でいい/悪い、生活の軸でいい/悪いがあって、その悪いの項(はたまたいいの項)のみを見ているがゆえに混乱が起こっていたのであった。たぶん。(ほんとうは仕事をすることも生活の中に入れたいのだ。)

reonnona.hatenablog.com

物語を(自分のこととして)引き受けることについて先日書いたのに言及があって楽しく読んだ。わたしのふにゃふにゃ文章よりきちんと説明だって書かれているのでありがたい。物語に自身の慾望をみるとしたら、けっきょく物語はすべて自分の物語なんだろうかとか考えてまたも袋小路に入ってしまう。あのエントリを書いたのは、そもそも自分がセンシティブでもしくは「全体をとりたがる」気があって、すべて引き受けてしまいそうになるからなのであった。病理なのかもと少し思っている。実際問題引き受けられるわけもなく、決心だけが残って無責任な自分を責めたくもなる。その一方で、物語と自分は対等で、ある時間は邂逅するけれどそれ以外の時間は知りませーん、自分の人生にそれは一滴も変化を与えませーんという人もいて、どうなのとか思わないでもないけれど少しだけ羨ましい気もするのであった。

全体をとりたい、というのは究極「神」になりたいみたいなことなんだろうなぁとぼんやり思う。すべての意思を知りたい持っていたいそして知らない人を下にみたいのである。TwitterでたとえたらすべてのアカウントをフォローしてるしTLを全部読んでいる。発言はしないがたまにRTをします。そう考えたらちょっと怖いね、神。それはどうやら難しい、というか無理であるということに気づきはじめて(わたしもしくは人類が)、個人になろうとしている現代、ポスト現代。なう。