紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


くらやみで字をかく

物語にふれたときに、なんでこれフィクション(ノンフィクション)なんだろうって思うことがあって、「物語」は原理的にフィクションにならざるを得ないという事実を同時に味わいながら考える。「フィクションです」って言ってしまうのは簡単で(実際そうなっちゃうものなのだし)、でも「ドキュメンタリー」とか「(感動の)実話」とか銘打ってしまうのはわたしたちが「真実」というものに弱いからなんだろう。事実は小説より奇なりと言うけれど。物語(作り話)は真実に劣るという序列がなされているとしたら、と考えてしまう。一方で、そのあたりに転がっている出来事は真実であっても、いやいや真実だからこそ軽んじられる。へたな事実よりはフィクション、フィクションよりは数奇な真実という図式があるのだろうか。

 

もうひとつ。

 

物語にふれたときに、たいへん感銘をうけたとして、それを自分の物語つまり人生に引き寄せることについて考える。フィクションでもノンフィクションでも切実な物語があり、重要なメッセージを含有している発信していると感じたとき(このアンテナも人によって感度が違うのがまたややこしい)、それを「物語」として処理するか、はたまた自分の人生に起こり得ることであると引き受けるか、たいへんに迷う。とはいえ、すべてを自分のことのように引き受けていてはいつか病気になってしまう(もしくはすでに病理なのかもしれない)し、「物語」として外部化しておいて、必要なときにつかえるようにしておくのが望ましいのかもしれない。でもあまりにも引き受けなさすぎだと、それもまた単なる(物語の)消費だなと思ってしまう。なかなか塩梅がむずかしい。

 

画面を観ながらくらやみで字をかくの、すべてを忘れないために。観ていた時間が文字に内包されて、あとで解凍できて便利。