紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


なんだかんだ~(中略)~★皆に感謝★

なんだかんだ、自分はおんなであるというところからはじまっている気がする。もちろん、じぶんはじぶん、なんだけど。空白に一本線をひいて、そこになにがしかつけくわえていく。その線はなんなのか、なんて書いてある? おんなだって書いてある?(イメージはエヴァンゲリオンの最終回ですね)

もしくは、わたしはわたし、って思ってみる。強固なうごめく丸、細胞が液の中でゆらゆらしている。そこになにかがくわえられる、または飛び出してかたちを変える? 拡張していく?

いくら波を越えてもそこに戻ってしまうのは、そんなに自分に拘泥しているのかよという気持ちもする。結局それしかないとも思っている。そんな堂々巡り、まあかわいいからええやんと思ってみたり、自分は自分からしかはじまらないの、それはそうなんだけど、身体性の限界というか、初歩のつまずきというような気もして、いきなり空に絵を描きはじめられる人はすごいと思うのだけど。

ここ数年のことだけど、自分、そして今、または感覚を大事にしすぎる弊害なのか、長期的な視点を持ちづらく、または耐えがたくなっていて、それを指摘されて腹が立ったりもする。なんかほんとうに、十代みたいなことを申し上げてはずかしいんですけど、今はつらい、かもしれないがそれが十年後に花開き、未来の自分の糧になる、って「未来の自分」を信じられるか。楽しい未来は楽しい今の積み重ねではないのか。つらい今を積み重ねて楽しい未来、ってアリ? 「努力」は未来の自分を担保(餌)に現在の自分からの搾取だって考えたことがあったのを思い出し、そういうのも積み重なって今のわたしの疑念をつくりあげてるのかもしれないな。

2017年は耐える(種を播く的な)、と思って何度も言い聞かせているんだけど、目前のつらさ、正しくなさに逃げ出してしまいそうになる。毎日のように。今現在の「耐えてる自分」は本来の自分ではないのだから、この自分の延長の未来の自分を期待されても嫌になるし、否定したいと思ってしまう。耐えると決めた自分には責任を持つけれど、その他の皆様におかれましてはノーサンキューなのだった。まあその自分すらも否定したいのだけどね。つらいつらいと呪詛りながら「耐えるんだモン!」に立ち戻る日々。嫌々ながらも自分との約束だけは守ってみようと思ってる2017年。毎日で自分にごめん、同居人にもごめん、ブログにもごめん、なのだった。

(自分で決めた)ブログ記念日というのがあって、そういえばたぶん三年書いていることになり、オメデトウなのであった。はじめとなにが変わったかといえば、それはもうたくさんあって、書いてる内容も文体も変わったし、ブログに対して文章に対して気やすくなった。心持ちというものも違ってきていて、以前よりは自由になった。そりゃ毎日つらいところにいるんだけど、自分を否定し続けているよりはましで、直接的にいったらそれは仕事をやめたことが作用しているんだけど、その思い切りをあたえたのはブログで文章なんだーよーと思っているんだーよー。へへっ、「★皆に感謝!★」