紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


趣味:料理

食事をつくること、にどうやら多くの意味があったらしく、食事を提供すること以上につくること、調理をすることがわたしにとっては癒し、みたいなところがあって、休日でも平日の夜でも時間をかけて献立を組み立てる、台所にあるものを把握し消費する(必要があれば補充する)、どの料理のどの手順からはじめるか、調理器具やコンロの空き具合、どのくらい時間がかかるかなんて考えながら、これは複合的なパズルゲームで、どう解いても最終的には(いちおう)成功はするし(味がよければ万々歳だけどそれは副次的な成果だ)、上手くできるとすっきりするというか、それでわたしは心を落ち着けている節がある。同じように掃除とか洗濯も生活のどこに組み込むか考えるゲームみたいに思っている節がある。もちろんホコリがないのが嬉しいとかはあるけどやっぱりそれは副産物で全部はパズルと思えばこそなのか、わたしの中では手順は決まりつつある。それに比べると料理は自由度が高い、ヴァリエーションがある、挑みがいがある。パンとかお菓子とかの生地をこねているとそれはまた違った意味での癒し、柔らかいものにふれること、わかりやすい癒されがあるのであった。

休みの日に家事をしてて、「ウッ、変態」と思ったりするし、ヒナ氏が分担してくれてもいいのにと思ったりもするけれど、これは癒しだからそう簡単には渡せないという気もする(満足できるレヴェルでやってくれるならいいような気もするが、必要なのは結果か過程か)。そう考えて、同居人の休みの日とか日がなゲームをしているの、それも癒しなのかもしれない。

それで今日はクッキーを焼いたりしていたんだけど、水分多めの小麦の生地の判別のついていない感じ、自分のかたちがはっきりとわかっていなくて焼く段になっても隣が近ければ元のとおり一緒になっちゃおうという感じ、マラソン一緒に走ろうとか同級生と言い合う以前のもっと原始的なごにゃごにゃをながめながら、手ではそれらを引き離したりしているんだけど、それから混沌が生物になるような、子どもが自我を獲得して青年になるような、その過程をひとつひとつひっくり返したりしながら確認する。隙あらばくっつきそうな時間は長くハラハラと見守り、焼きが入ってくるとまずは外側からぷっくりと形が定まりはじめ、でもここでさわるとまだまだ柔らかいのがわかり、耳たぶな感じで無駄に転がしたりもする。そうすると隣人とは多少近づけてもよくてはじめよりくっつけて一度にたくさん火にかけられる。寂しい気もするけれど、食べるためにはこれが必要。最終的には焦げ目がついて堅いガリガリになるまで見届けてハー満足。満足したあと食べられて、料理ってお得な趣味だと思うんだけどどうですか。