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紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


これは文学?

(たとえば)かなしい、を「これはかなしい気持ちである。かなしい」と書いてもしょうがないと思う。かなしいという言葉をつかわないで書く。もしくは「かなしい」と言った場合はほんとうはかなしくはない、ということにしたい。書いていないことを書くのが文学なのだという気がしている。

小説と文学のちがいについて、なんとなくわかってきた気がして、しかし書きよどんでいる。小説を書きたいのかというとよくわからない。そうかもしれないし違うのかもしれない。ただ、自分(の内部)をあらわすために(厳密にはそうではないけど、便宜的にそういうことにして)文章を書きたい。わたしの内面を知ってほしいわけではない。ただ、書きたい。

「文体」についても個人的な諒解に達していて、それは内面そのものなのだという理解をしている。考え方、思考の流れ、それまで生きた道筋を勘案すると自然とできあがるもので、ほんとうは誰にも固有のものなのだ。

保坂和志だったと思うけど、「小説かそうでないかは書いた本人が『これは小説』と思っていたら小説」と言っていて、なるほどと思い、そういえば高橋源一郎は話題になった小説を「これは詩ですね」と言っていて(うろ覚えだけど)、そうするとそれが小説なのか詩なのか(またはもっと別のものなのか)は読んだ人にゆだねられているのかナァ。などとも思う。

個人的な意見なのだけど、文学はとても大きなものだから、それを切り取ったやつには「お前は小説お前は小説」と言いきかせておかないといけないのかなという感じ。呪いをかけておかないと、ふとした瞬間に小説は物語にもどる、文学であったことを思い出し、そうしたらわたしたちの手にはおえないのかも、みたいな。いえこれは完全に今キーボードを打ちながら思ったことなのだけど、なんかでも「小説」って枠組みけっこう無理くりな感じするんだよねぇ。もっというと、はじめから「ぼくは小説でーす」って自分から言ってくるようなのは小物なのではと思ってしまう。

変な音楽をきいていて、でもその無意味の中に文学があるとわたしは思ってしまう。意味をもたせようとしない地平、もっと言えば「意味をもたせないようにしよう」とも意識しないその地点。そんなのは無理なのかもしれない。言葉遊びなのかもしれない。しかしわたしたちに意思なんて、本当の意思なんてあるのかなとか思ってみて、それでもって全部を相対化、太古の海へ、カオスの波がさらっていってしまう。