紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


出会えないけれど一番近くにいる山崎まさよし

まさやんのことわかってあげられない。から考えてたどり着いたのは宇宙の果てに鏡があって向こうとこっち、対称に映っているだけなのだ。こっち側にいるわたしは向こう側のこと、まさやんのことわかってあげられない。

とっても楽しい会に行って楽しい楽しいてっぺんで、ふと「ここにわたしがいなくても、この楽しさは損なわれないだろう」と考えてしまう。隅に立っているわたしにもう一人の冷たいわたしがその考えを吹き込むのかもしれない。ふっと。その途端にわたしの精神は浮遊してその場の楽しさとは切り離される。みんなが笑っているのを見ているだけだ。わたしも笑っているのだけど、それはこころの表面をすべっているだけで奥底からではない。そのときわたしは冷笑的な自分にとらわれている。

その逆を考えてみることもあって、つまり誘われたけど行くのを断った会のその時間にみんなのことを思い浮かべる。いないわたしをみんなの輪の中にすべりこませる。楽しいんだろうね、みんな笑っているね。これはもう自分からこころの表面をすべらせにいっているのだから悪趣味を究めてる。そうやってわたしは楽しさにふれられないこと、楽しさもわたしにふれられないことを想像してしまう。

いるようでいないわたしを弄んでいると、もしかしたら対になる概念が向こうから走ってきて、それはまさやんこと山崎まさよしの「One more time, One more chance」で、

 

いつでも探しているよ どっかに君の姿を

向かいのホーム 路地裏の窓

こんなとこにいるはずもないのに

 

こんな歌詞に代表されるように、まさやんはいないはずの女をさがし続けている。向かいのホーム、路地裏の窓、交差点でも夢の中でも。もちろん楽しい楽しい集まりの中でもいない女の影を求めているだろう。こうも病的にでも呼び続けてくれる人間がいるからこそ、不在の自分みたいな概念を弄びながらこの世に存在し続けられるような気がする。まさやんのこの歌はわたしにとっての蜘蛛の糸で、この一本があるからこそ繋ぎ止められている大事なピン留めだ。

厳密にいうと、不在を志向する女といない女をさがす男は対にはならない。後者は前者を包括する上位概念だ。いない女はさがせても絶対に出合えない。出合った途端に「いる女」になってしまうから。まさやんはそんな女を求めていないはずだ。

絶対に出合えなくて申し訳ないけれど、誰よりも近くにいるよ。違う宇宙の同じ軸にいるんだねという念を送りながら眠ることにする。わかってあげられなくてごめんね。おやすみ、まさやん。

 

One more time, One more chance

One more time, One more chance

 
One more time, One more chance

One more time, One more chance