紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


どうしちゃったんだテレビ

最近のことを書きます。ねむい。蒲団の中から。端折るというか書くほどでもないという感じでNetflixがやってきました。同居人がHuluから乗り換えたそうです。少し前に購入したテレヴィジョンにはNetflixのボタンが付いていて押すだけでNetflixが観られてしまうのです。ほかにもYouTubeTSUTAYAのメニューもあったりしてどうしちゃったんだテレビという感じです。テレビじゃないじゃんのん。チャンネルをまわすという、いわゆるザッピングするみたいな風習は自分の中からは消えてしまっていて(それで自分の好む番組に出会うことが少ないし)、大体は番組表から録画をしてそれを観ている。番組を選ぶ基準はTwitterから得ていることが多いので、テレビを観てもそれはインターネット的行為に近い気がする。さてNetflixなのだけど、『シャーロック』という外国のドラマがあって有名なのでみんな知っている体でとくに説明する気はないのだけど、そのシャーロックを観ている。なんでかというと、『IQ246』というまあまあしょうもないドラマがあって、これもTwitterで知ったやつなのでインターネット的ドラマ視聴なのだけど、これが前者に似ている、というかかなり参考にしているのではという同居人の証言により視聴させられたのだけど面白いので一緒に観ている。IQの方は面白いと思って観ているけどそれはちょっとアレな楽しみ方の面白いであって、このドラマはだいぶアレである。ともかくシャーロックを褒めてIQのアレな部分をあげつらうという夜を幾晩か過ごしている。性格の悪さ。


わたしは真面目だし善人であるので、友人がなにかお困りごとがあるのなら力になりたいと思ってしまうのだけどそれにも限度があるというようなことをまま思ったりもする。ひとりですべてを代表するなんて、のような不遜な全能感みたいなものが通底していて自分が動けばなにかが変わると思ってしまう。必要なのは肉体だがその肉体の疲れを勘案しない(できない)。感じかな。わたしの身体はわたしのためにあるのか。他人の満足はけっきょくわたしの満足になるのだからそれは利己的行為なのか。でも結局肉体の限界によって達成できないのであれば考え方を変える必要があるか。一般によくきくようながんばります主義みたいな精神論、苦々しく思っていながらものすごく内面化されていてそれも辛さの一因でありそう。辛さって書いたけど辛いんですかね。わからーん。ともかく思ってしまう自分の気持ち(の傾向)と現実を寄り添わせたいなあ。