紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


少しは流れにさからって

どうにかしようと思って隅に本を積んでいる。段ボールを用意してとりあえず入るだけ入れてリスト化もしちゃったりしてそれでも往生際悪く封をしないである。少し置いておくだけで埃がつもる。どうせ忘れていたものたちなのにいざってなると名残惜しくこの作業は何か月もかけて行なわれている。手放せないと思うものは思うので、これって執着なんかなーとか思ったりして、たぶん一度片づけてみると(捨てるとか処分するとかいいたくないよね……)すっきりして病みつきになってしまうのではと予想する。断捨離ってそういう面がある気がする。はずみをつけてがんがんに進めていきたいし、それが世の中でこの生き馬の目を抜く21世紀とか思ったりしながら(そう思い込まされてるだけなのかもしれない)、でも片隅においておく数か月を大切に考えるのもひとつあるとか思いながら。

手もとにある雑誌をぱらぱらと繰っていって、終わりの方に載っている詩に「渋谷には長野がなかったし、新潟もなかった」とあった(最果タヒ)。「渋」は先日の短歌のお題にあったのではっとする。渋、渋谷、でこんな連想という気持ち。一文字の漢字は点のようで、熟語になると面になり、その顔にどんな肉付けをしてどうかたちづくるか、みたいな。点の時点での発想奇想ばかり考えていた気がした。すべての面にいちいち物語を考えていてはたいへんだけれど、ともかく目前のいくつかのことについては深度を持って(感覚としては水深をイメージしているが(おそらく人により異なるだろう))思考したいと感じた。(しかしわたしの思考ってふわっとしていて、○○は××だー!(どーん)って感じではないから発表しづらいのであった。)