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紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


鬼退治

梅雨があけたらとたんに暑くなって、ゲンキンな気候と思ったり、気候の顔色うかがって梅雨あけ宣言してるのだから誹られる謂われはありませんと思ったり。家でパンを焼いてるときはいい気分だったのに。どうも元気がよくないと外に出て縁石に腰かけているあたりで自覚する。週末は駅でお祭、ギター弾くのでみにきてくださいといわれてのっぺりと出かけた先でのことだ。駅の南側は車輌立入禁止になっており、道沿いに屋台がならび大変に賑わしく子どもたち。屈んで小さなプールに浮かんだカラフルな何かをすくっていたり親子連れや犬もいたが人いきれを避けてアルコールの列和太鼓をたたく法被の男だんだん心が沈んでいきこれではいかん体裁だけでもとりつくろおうとコンビニで缶入りのアルコールを買う。一本あけてのんでみても気分があがることはなく、コンビニの前の十字路すぐ近くが目的の会場であり、すぐに路上で弦をかき鳴らす人をみつけた。裸足かよ。常であれば笑ってしまう音楽がこの時はソリッドに肌の上を跳ね返り、高めのマンションの壁に反響していた。裏声の絶叫が空すべりしているようでこの場にいたくないと思いながら、そうもできずどうにか縁石にかける。アルコールを飲みほしても酔えない。それで冒頭。

笑えない音楽をききながら現状を整理。あたたまったアスファルトはあたたかくわたしの尻をあたためる。今この瞬間への不満、不透明な先行きに不安、ハッとわたしはこのまま何も成さず好きなものも好きと言わず死んだように生きていくだけなのだという直感がやってきて絶望と怒りが混ざった雲のような気持ちになりしばし。生きている。この怒りを忘れてはならないのだ……(chill out)。

しかし思い出してみれば、そうした感情をおぼえることははじめてではなく以前はしょっちゅうあってそのたびに憤ったり落ち込んだりしていて確かにそれは"生きている"ということなのだけど、つらかった。感情の上下するのはつらかった(575)。これはどうも、揺れ動いていないと恋愛じゃない! という若い人の恋愛観みたいなもんではないかと思い(いえ、そんな恋愛も素敵)、恋に恋にするような感覚であり(いえ、そんな感覚も素敵)、それを援用すればこのつらくなければ人生じゃない(生きていない)、という感覚でやっていけないのが三十代(以降)で、それも含みこんでわれわれはもっとしたたかに生きていくのではないかなと思った。のだった(だったー)。

それにはこの感情および着想をおぼえていなければ。忘れてハッと思いついて気持ちが上下していては疲れすぎてしまう。しかし記憶力の低下も同じく三十代(以降)のテーマ。いやはや。そのうちに知人の演奏は終わって次のバンドがはじまっていて、近くの学校の軽音楽部、そしておじさんたちのバンド。若い人たちの演奏は若い感じがして、おじさんたちの演奏は腰がすわってかっこよかった。