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紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


上手くならない

絵をかくのも文章をかくのも短歌をつくるでも写真をとるでもなんやかんやも(現時点でしていることだけあげたのだけど、音楽とか映画とかもきっとそうなんだろうと感じるので)、根っこは一緒だなと思うことがあって、数か月前、なのだけど、紙とペンをもってピクニックに行きましょうと言われて行って、みんなで絵をかいてああだこうだ言ったのが、学校教育以来初だよ絵をかいたの、と少しふるえ。いつも変な絵(くまのイラストとかね)ばかりかいているけど、それらをカウントしていなかった。ことが明確になった。たぶんそれらはわたしの中で漫画の延長にあって、小学校中学校高校くらいまでふざけてかいてたでしょう、漫画。日常の出来事とか気持ちとかあらわすのに漫画形式ってすぐれていて、それと美術的な絵って違うものだとどこからか分けて考えていたのだと思う。『かくかくしかじか』(東村アキコの自伝的漫画ね)でも主人公が再三悩んでいたし、美大を出て漫画家になる人もいるんだけど、やっぱりイコールではないらしい。

というわけで、気持ち的には、ウッ! 絵なんてはじめてかきます、、という気持ちで臨んだのだけど、実際にかいてみると絵の癖手の癖線の癖みたいなものがぽこぽこわいてきて、漫画的なものの怨念がわたしの美術を邪魔するのであった。それがものすごくへこんだのだけど、ともかく目に見えるものをかく(動物は動くから大変)というのは面白いのでやってみたらよい。最後にみんなでスケッチをならべて、その線のちがいがすごくて、各人の絵のとらえ方、線のとらえ方が違う違う。イラストチックな人もいて、それも衝撃だし(いいんだ!)、この人にはこの世はこう見えているのかしらという発見。

不思議だったのは、いびつな線や不安定な筆致がいとおしいというか好もしく、上手なものは上手だねーのそれだけになりがちなことであった。続けていればある程度は上手にはなるのだけれど、はたしてそれがいいことなのか、みたいな話をしていて、やっぱりはじめての線や感慨はなにものにも代えがたいという経験談、それは自分が昨年短歌をはじめて意識してつくってみたときに感じたものと似ていた。一度地平を得ると、自分のタイプとかできることがわかってきて、それをどうにかこうにかひねくり回す作業になるが、それは「上手くなる」を指向してしまって(指向しがち)、それ自体は悪いことではないのだけど、他者の目を気にしたりひとつの価値観にしばられてどんどん不自由になる(しそれに気づかない)、みたいなことかと思った。やるからには上手にはなりたいから悩ましいのだけど、「上手くならない」という価値観があってもいいとか思えた。

上手か否かというのは外見上の問題で、見栄えだけよくすることは慣れでできるようになるのだけど、絵の(文章の短歌のエトセトラエトセトラ)本質はそこじゃないんじゃない、ということだった。というわけで、絵も文章も短歌にしても、この世に産み落とされてしまった苦しみを生き抜かなくては。とか。自分の手癖が気になって、なくそうなくそうと思ってしまうのだけど、手癖を受け入れてこそかな、とかも最近思っている。