紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


あい、たそかれ

愛みたいなもんに包まれて目がさめる朝というものがあり、しかしそれは誤想だ。自分に言い聞かせているのかもしれない。ともかくそれは優しいひかりとともにある素敵な朝なのであった。前の晩に眠れなかったことを思い出すと、原因はわかっていたけれど、組んだ掌から中身が浮き上がって指先が冷えていくような、鳥肌が立ちすぎて中身とそとみが剥がれていく感覚をくらやみでひとり横たわっていた。まんじりとせず、眠りがおとずれるのを待ちながら、でも時間が止まってしまえば眠らなくていいのだと相反するよるの底の深さ。2時過ぎのエンジンの音は朝刊にしては早すぎる? ひとりぼっちの夜が明けるとすべてがひかりに満ちているというのは皮肉みたいだった。寝ている人を観察しても夜もあさも変わらぬ動きをしている。かれの生きていない時間をわたしがみている。フンフン。

最近変わったことはいくつかあって、そういえば北側の窓にカーテンをかけた。もともとすりガラスであるし、今までは窓の外に繁った樹が植えられていて、人目も日光も気にならなかったのが、先日の手入れで葉のついた枝が根こそぎ伐られてしまって落ち着かなかったのだ。ついでに植え込みも小学校低学年くらいの高さに刈り整えられてしまって、建物の雰囲気がだいぶ変わってものさびしくなった。ひと夏すればまた繁茂すべしとわかっているけど少しだけわかれ。急に明るくなった窓が落ち着かず、レースのカーテンだけを買ってきてかけた。レースといっても格子になっているだけで、すりガラスも相まって明るい雲間のような繊細な光をわれわれにお届けする。見えない糸でていねいに編まれたようなひかりだ、というわけで冒頭の朝はそんなものに由来するのかもしれない。でもなんか、すりガラスでもカーテンかけた方がいいですよっていうライフハック

某有名電気ケトルをずっとつかっていたのを新しくした。しかもドリップケトルのやつ。コーヒー飲まないのに! とはいえ、同居人はこだわりなくがぶがぶ飲み、わたしは一日一杯だけなら飲めるので、小さなドリッパーなども買ってみて珈琲生活のスタートである。近くにとても良い喫茶店があり、思い出してはかよっている。そこで豆をひいてもらう。淹れたあとの珈琲を皿の上に広げて乾かして土にする。ケトルをネットショッピングで見てたので、広告がどこまでも追いかけてくる。買ったものは買わないぞ。

ていねいな生活、とはインターネットでよく見る言葉なのだけど、一方実生活ではそうでもなくて、ジャンキーは変わらずジャンキーな生活をしているし、ナチュラル指向の人は人で、ていねい通り越して野草を研究したりしている(そういえば、上述の喫茶店でひらいた雑誌に「野草特集」があった(し、その横に置いてあるのは女性週刊誌だった))。たぶん、「ていねいな生活」は(つきつめると?)実際そんな言葉ではあらわせない地を這うような暮らしになって、そんなカタログみたいなものじゃないんじゃないかなと、なんだか思う。さいきん思う。

たぶんそれと似た感じで都市生活者とインターネットが提案する生活って親和性が高くて高すぎるみたいなことも思う。おもに実家に帰ったときに。野草とか田舎の人の方がクールに対応している。インターネットによって(広告によって?)さまざまなものが再定義されてお届けされるのだけど、届く人は限られている。「それネットで見たよ」に対する返事のそっけなさ。都会と田舎の話はいつか書きたいのであった。なのでここまで。

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あんまりひらがなにひらきすぎると文章の強度は落ちるな、と思って、それはつまり個別性がすぎるので、時間が経ったときに客観性がひくい、というような。そんなことを考えながら本エントリはひらがな多めにしてみたり。