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紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


一瞬を永遠、いくつかの時間

なんでみんなそんなにfacebookやってるんだろうと思うことがあり、家族のことや仕事のことつまり身分や配置のことばかりでなく、行った場所や食べたものの写真とかいろんなものについて考えたこと思ったことをとにかく書いて書いてピン留めしている。おのれの一挙手一投足をその瞬間を残しておきたい、ひとところに集めておきたい、という気持ち、であれば、わたしも同じような気持ちになるのでたいへんに同意する。しかしその一方でそれは無理だぜあきらめな、とも思う。これはわたしがブログに日記を書いていて至った気持ちである。少し前にも書いたけれど、現実の情報以上を記述することはできない(データだけ書いていきたいならともかく)。ならば等身大にそのままを書きあらわそうと思っても、それもできない。文字を書きつける先から現実は外側に逃げ広がっていき、追いつくことはかなわない。簡単な例でも今この一瞬を書いている間に次の一瞬があり、それを書いている間にさらに次の一瞬が、、ということだ。投稿に添えられた写真も同じことで、過去の恣意的な一瞬を示しているにすぎない、というようなことを考える。

感情が冷静を上回っているときは、とにかくそれを何かに刻み付けたい気持ちになる。感情は大切だ。その時は感情が最優先になる。つまり、その感情は正当であり、ほかの何ものより尊いのである。自分の感情を尊がることは誰にとっても必要で、最重要だと実は考えている。これには注意書きがついて、「その人にとって」ということと、「感情は一瞬のもの」ということだ。感情はなによりも時間的なものであって、一瞬前に熱狂していたものがその次には冷めて何でもないものになってしまうという経験はおそらく誰しもあって、その感情が継続するためにはほかの何かにすり替わる必要がある(これは三木清の「怒について」からの転用だね)。

ともかく、「その瞬間」に刻み付けるべき(最優先されるべき)なのは「その時の感情」なのだ(と考える)けど、けっきょくそれは次の瞬間には(翌日でも一年後でもいいのだけど)、無用なものになっていることを知っておくべきだと思う。それでも、わたし(達)は記録を刻み続ける。感情(瞬間)はそれが終わった後に距離をとってからが一番正確に記述できるのではないかと思うが(しかし書きたいのはその一瞬、というディレンマ(断ち切れ))(その感情を読みたかったりするのだけれどね)。書くのもいいけど、書いてる瞬間がもったいないから、その出来事にどっぷりつかったらいいのじゃないかと先日思ったのだった。

それで、記述が現実を越えるとしたら、それは書かれていないことによってなのじゃないかと考えている。記述の際には現実が逃げないように追いつめすぎず、余白をもたせてやるとか(余白に追い込むのだぜ)、読む人が勝手に意味を追加していければ(いいか悪いかはわからないけど)時間や空間の制約をとっぱらえるのではないか、というようなことを思えるようになったのでわたしはしつこい記述を最近はしていない(記憶力の低下でしょうがない部分もあるけれど)。facebookの話がどこかに行ってしまったね。書いていて思ってもないところに着地しようとするとき、文章的時間が立ち上がったと思う。文章が書かれたがっているものを書き手から引き出しているような。そのとき、わたしは(書き手は)文章の内部を生きている。