紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


わたしたちに名前は(いら)なかった

人間に、というか自分に、身体があるということがどうにも上手く信じられずにいる。のはおそらく自宅に全身鏡がないからだろうと感じているけれど、鏡で一番見るのは自分の顔のはずで、それに馴染みすぎて頭の中のイメージでは身体における頭部の比率が大きく大きくなっており、二等親のポリゴンのキャラみたいな気がしてくる。ために、外出して自分の全身を眺める機会を得たときに、そのあまりの見慣れなさ不格好さに驚き赤面する。文字通り頭でっかちの考えに陥っている。手も足も美味しいものを食べたり楽しい経験をするところに、わたしを(つまりわたしの頭部を)運んでいっているというのに。このむくわれなさに胸をいためる……のもわたしの頭部の役目。

 

というのをなんだか、同行者が達磨の赤い顔を眺めているのを視界に入れたのを思い出した。見つめているのは悪い気がしたので横を向いて別のものを見ているふりをしてしまった。多くのものは演劇的でその世界から抜け出せないでいるのかもしれない。ひとりで。

 

頭がつけた名前を持って、それだけで事足りた。ということ、が。

 

 

数日前から部屋を片付けていて、書籍をどうにかすべきということはわかっているので、選別しているのだが、選別してはいけない。けっきょくどれも手放せない、という気持ちになってしまう。同じものが二冊ある文庫が三冊、漫画が一冊。単行本と文庫のかぶりを上げだしたらきりがない。心がいたみすぎるので作業が進まない。思いもかけぬ本があちらこちらから出てきて、自分でも忘れかけていた詩の本が何冊も出てきた。有名どころばかりなんだけれど。寺山修司の詩集をはらはらとめくるとどうも短歌らしきものが載っていて、詠むのかまあ詠むかなどと考えながら。

 

むかし。詩を書きたいと思った。詩とはどんなものなのかわたしにはわからなかった。

 

短歌を詠みたいと思った。これは最近。いくらか詠んでみて(詠んだといえるのか、という疑問は残る)、やはりわからなかった。

 

韻文も散文もわからないな、という気持ちだけがあった。今でもずっとわからないままだ。ということをほろほろ思った。しかしまあその話はまた今度。というかいつでもその話をしているような気もするし、とりあえずこの目の前の惨状をどうにかしたいのであった。

 

 

寄り道先でボラーニョのことを思い出した。映像の中のおんなは朗読をしていた。わたしはまだ読んでいない文字文字の隙間を波間をさぐりながら歩いているような爪先から沈んでいくような感覚がして、世界がたとえばもしかしたら紙にしるされた黒いインクだの墨だの殴り書きだの精緻な筆致だのの時間的なそして空間的な広がりに身を浸していると強く思った。上昇ではなく落下の感覚に近かった。過去の日本の画家がいて、おおよそ同年代の外国の小説家がいる。その広がりの片隅でわたしは小さくなって泣けると思った。でもたぶんそれはあまりよくないことの気がした。写真を修整するご老人の声をききながらそれもまた強く思った。黒い小さな小人のようなガイドが視界の隅にいてくれて、それが歴史をつなぐ案内係のようだったということ、力強く思い、忘れないような気がした。

 

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空を蹴り明日天気になりませんかわりに行く先おしえる雨靴

 

明日。明日の話をしよう。外で絵を描く会に行く。それもまた不思議な話だ。