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紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


大掃除(小)

年も明けたところだけど、年末にできなかった大掃除をする。といってもキッチンまわりだけ。プチ大掃除である。HDDもあけていきたいから、以前のテレビ番組の録画を流してきいている。画面も時たま見る。

NHKのバリバラという番組があって、その中でドラマをやっていた回だけ録画してあったのだった。筋をざっというと、主人公の男は統合失調症をわずらっていて、その視点から症状がえがかれる。ほかにも障害のある人物がたくさん出てくる。ダウン症、身体障害、視覚障害、まあとにかくいろいろ。それで障害があるなりに楽しくやったり、辛いこともあったりするのだけど、途中くらいに「障害がなくなる」(というふれこみの)薬だか果実が出てきて、はたしてそれを食べますか? という話になった。何故これが問いかけになるかというと、障害がなくなる代わりにこれまでの記憶を失うという副作用があるから、なのであった。するともう虚構なのか現実なのかわからないのだが、障害のある人々が丸くなり、自分はこうする、こう思うと言っていく。

「私は障害がなくなる方がいい、思い出はあらためてつくればいいから」とか「障害があって記憶があっての自分だから、その薬(果実)は食べない」とかの意見があった。どちらが正しいということはないのだろうけど、わたしがその問いを投げかけられたらどうするか、と考える。現在のわたしは、まあとりあえず障害はないわけで(ギリギリだなーって思うこともあるけども)、そしたら自分の記憶がなくなってしまうのはとんでもない、と思う。しかし自分に障害があったら。発達障害だったら、精神障害だったら、身体障害だったら、知的障害だったら。障害の軽重、というと語弊がありそうだけども、自分のキャラクターと社会になじめてる度、そういうのを含めて、主観的に生きづらい生きやすい、によって障害をなくしたいか記憶を失いたくないかは違うだろうなとか思った。なので、画面にうつるこの人は○○障害だからこう思うんだナーとか考えるのは違うのであろう。けっきょく障害の受容の話のような気もするし、自己の受容、に置き換えたらどんな人にだってこの種の問いかけはできるだろう。とか。つまり、障害者専用の問いじゃないんだぜ、ということ。

それで、しかしこの場では「これまで経験してきたことが自分をつくっているから(障害がなくなるという選択肢を選びません)」っていうのがカッコイイしなんとなく場の圧力みたいなものはこう言わせてくるんじゃないかなと思うのであった。だったらじゃあ反対のこと言おうって思ってしまうアマノジャクな人もいるのであろうあったそれはわたし。どんな答えを出そうが、(障害をなくしたいといった人に)「あーこの人、障害を受容できてないんだなー」とか思うのはいかんなと思ったのであった。あった。まーでも難しいね。正月から人間について考えてしまった。