紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


わたしのエンド

なんとなく、終わり、ということを考えたりする。クリスマスも何ともなしに過ぎていき、年末だけが残っている。しかしこの調子で過ぎてしまうのだろうね。一日が長かったり短かったりする時期はもう終わってしまった。のだろうか。

そうそして、終わり、ということだけど。人生何十年かわからないけど、まああと何年か何十年かは生きて、それから死んでしまう。そこで(わたしの)何もかもが終わり、というのは科学的思考のリミットという感じがする。物質的になくなる、意識(というものがあるとして)もなくなる。そこから先は哲学とか宗教の世界でたましいみたいなものがあるか、輪廻があるのかというようなことも考えるけれど、やっぱりわからない。あってもいいなと思うけど、その先の世界のことは現世のわたしと同じには考えられない。というふうに考えていくと、なくなってしまうのはやはり怖い。無は怖い。

それで宗教は置いておいても、次がある、とか、つながっていく、とか感じるために(というと言いすぎで結果論のようなものかもだけど)、たとえば子孫とか財産とか名誉とか残す、残したがる、残っていく、ということがあるのかもと思った。

種の保存、というのは生物的にもっともらしいとは思うけれど、宇宙レヴェルの視点でみたらどの惑星にどの生物がいようがいまいが滅ぼうが特に違いはなく、惑星のひとつで生きているサイズの世界で記述されうることという感じがする。でもともかく、どんなにちっぽけであろうとも、生きている種としては、この生を生き抜いて、次につなげればいけない、はずだ。生物としては子孫、ということでいいのだけど、人類だったら他にもビル・ゲイツの財産、トーマス・エジソンの発明、三島由紀夫の文学、エトセトラエトセトラ、遺伝子だけでなく世代をこえて影響を与えることができる。できてしまう。

ということが、科学的な終わり(死亡すなわち無)と併存しているのがややこしいと思っているところ。それで、そう、わたしは、現時点では子孫はおらず、とくに何か爪痕残すような功績もなく、いくばくかの金銭はあるけれど、まあ小学生なら夢見る顔になる程度。を、家族に遺す? と考えて、遺言もべつに書いたっていいわけだしねと思いつつ、あーでも、何割かはお世話になったところに寄付しようと思った。思いました。たとえば出身校への寄付って用途を限定できるのかしらん、図書館とかサ。っていうのが現時点でのわたしのエンドなのだった。