紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


日記というもの

(わたしなりに)めちゃくちゃに熱量のある文章を下書きにしまってこの記事をかくことにする。日記、という二文字は単純なようでいて、奥が深い。つまり、単純にその日のことを記す、ということだけど、「その日」にそれが起こった、そう思った考えた感じた、という組み合わせ。日付をx軸、事象をy軸として(個人をx軸、事象をy軸、時間をz軸のがスマート? 要検討)プロットしていく(されていく)個人のスケールは当たり前だけど唯一無二であって、たとえばそれが過去の誰かの身に同じことが起こっていた考えた言われていた、としても、個人の時間においては絶対的な標識、というと大げさかしら、重石というか付箋であり、また未来においてそれが覆されたとしても(出来事が間違いであったとか、あの感情は恥ずかしいからなかったことにしたい、とか)、それは時間軸上のことと指をすべらせて微笑んでほしい。というような。後半はちょっと自信がないが、そんなようなことを考えたのは本日で、そしたらそれは今日書かなければならないのだった。下書きに入れっぱなしのエモは死んだエモになるような気がしたのであった。

つまり、日記とはかぎりなく個人のもので、それは(個人の)生きた時間である、ということだ。日記を書くということは主体的なようでかつ受動的でもあると思ったのだった。(大きなものに)書かされている、というようなことであった。日記について考えだすと紀貫之まで思考が戻ってしまうのだけど、あれはどうだったんだろうね。

 

ものを書くときに(限らないけれど)、自分が張りつめていって深く細く一点に集中していくような感覚がある一方で、神経をゆるめ、時間的にも広がって空気や他者の声をきいて取り入れなければいけないという感じもある。自分が自分でありながら、他者や世界や時間である感じだ。よほどの天才であれば自分の中のものだけでやっていけるのかもしれないけれど、わたしはにやにやしながらいろんなものを取り入れていかないとほんとうにまずしい、ということが歯がゆくなる。バランスがうまくいかない。書き続けたいし取り入れ続けたい。(生活とは別に)生きることの両輪ががたがたしている。今はっと浮かんだのはえら呼吸。水を吸って出す間に酸素を吸収してる。吸収したい。一体化したい。

 

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読みはじめた。一週間に一冊ペースなので、これが年内最後の本かもう一冊いけるかどうか。

物語にふれる前に前情報を入れない派(ネタバレ忌避派)なのだけど、それは前提があると、自分の読みが引っ張られていってしまうからなのだった。本でも映画でも終わったあとにしらべる派。それで自分の感覚と比べたりする。自分がだいじ派、なのかもしれない。

 

本日は、ふと、「昔男ありけり」の力強さを感じた。