紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


思考形式/藝術の秋

頭の中でものごとを考えるときにしゃべりながらじゃなくて考えられる人がいるらしいよ、と言われて。ハテ、頭の中で、ということは音声を介さないのだから、しゃべりながら、という形容は正しい? それとも独り言を言いながら考えてる人のこと言ってる? たまに見かけるけど。とか思ったのだけど、声は出さずともしゃべるように思考を進めていく、ということらしかった。 

書き出してみてなんだけど、この話題について全然ぴんときていないので、ふにゃふにゃで書き進めていくことにするけど、わたしの思考はぱっと浮かぶ、水面に滴が落ちてしぶきを上げ波紋が広がるみたいにぱっと出て消える着想のようなイメージで、イメージした瞬間には思考は完了している。すぐに消えてしまうから覚えるのは困難で、覚えているために言語を用いる。言葉に当てはめて頭の中で繰り返す、記憶に定着させる。基本は非言語的。

しかし最近はブログに書くみたいに文章をつくって話しかけるようにもごもご反復したりしているから、最前のしゃべるように思考、というのはわからないでもない。とか思ったけど説明するのが面倒なのでやめた。御免。

どの段階で思考をしているのかっていうのは哲学のレヴェルでも習慣のレヴェルでもおもしろく、ただ実感としては書いてる考えている過程でも思考は進んでいるので、それは広がりや深さのどちらか(はたまた両方)を得るのは言語にする段階なのかなぁとか思った。

 

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soulkitchen.hatenablog.com

 

藝術の秋。とかいって、知人がなんとかの会展公募みたいのに出品し入選した、というので連れだって観にいったのだった。

わりと大きな美術館は会場がいくつもあって、美術館企画のなんちゃら展以外にも会場を借り切って展示などをできるようだった。なんちゃらの会は歴史がかなりあるようで、展示も委員、すごい委員、招待作品、会員、会友、一般、とか細かく分かれており、団体としての厚みを感じさせた。しかし、それは要はピラミッド型の組織で、下のものは上のものの踏み台にされているのではないか、などと余計なことを考えたりしてしまう。幹部(?)の人たちの作品が入ってすぐの部屋にあって、それから純度が薄まっていくのを感じながら、あー好かん、こーゆー組織は好かんとか思っていた。

知人の作品は一般なのに会員コーナーに混ざっていて、絵の大きさとかもあるのかもしれないけど少しだけ誇らしかった。展示会場にいた会の人が知人の絵についてああしたらいいこうしたらいいと言っていて、けっきょくは、来年はもう少し大きなサイズで描いて出してくださいよ、と言っていて、知人はなんちゃらの会の会員になってしまうだろうかと心配になる。まあでもそんなの言われたらうれしいよね。知人の絵はひいき目にみても繊細でよかった。わたしはひねくれているだろうか。

 

 

絵とかいって、わたしはこういうのしか書かないのでなんともですけど。 

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(なんなんだ)

 

と言っても出してる人たちは上の人でなければおそらく一般の人々で、わたしも素人なりになにか言ったり思ったりできるのではないかとか思い、その前夜まで短歌のことを必死に考えていたから、そういえばこれも短歌と同じかなとか思ったらまあまあにしっくりきたのだった。すべては好みといえばそれまでだけれど、写実的なもの、細かく描かれているものが好きみたいだった。心象風景はこちらが入っていけるかどうかによる。自分が写実的な風景を好むとか意識したことはなかった。