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紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


ノーマンブレイク

ニット帽の季節ですね! もちろんわたしもput onつって家を出て駐輪場までの一分で暑くなって脱いじゃう陽気。とはいえ夜は冷え込みます。朝に出かける準備をするときの温度と動いてるときの温度が違いすぎる(のに毎朝やってしまう)。

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(このタイプをよく見る気がする)

今日の保坂和志進捗ということで恐れずにやっていくわけですが、前回の日記を書いた翌日に読みはじめるとすぐに「すごい」と「すごく」のことが書かれていて、保坂和志はわたしなんじゃないかと思ってしまった(ほかにもわかるわかるよってなことが多すぎる)。だとしたらあんまり読んでもしょうがないのかなとか考えて(たいへんおもしろいのだけど)、とりあえずかれが小説と思うものを一作読んでみようと思ったのだった。なにがいいかな。ぜんぶ読んでやるぞと思っているならば『プレーンソング』からってなるけど。迷うね。

それで、小説にはネガティブに傾く磁場があるとのことだけど、とにかく明るいことを書こう、口にしよう、そうすると幸せもやってくるよ☆、みたいな風潮もあって、そういう本やブログも多いし、一般的には正しいみたいなところもあり、そっちに引っ張られることもあるなぁと思った。学校で書いた作文なんてだいたいそんな感じだ。「がんばろうと思った」「気をつけなければならない」エトセトラエトセトラ。そういうのはオチもつくし、きれいにまとまる(ように思える)から重宝されてるんだろう。そう書いておけば周りも満足するしという計算もあった。そんなまとめの構造がわかっていたし、嫌だったし、しかし抜け出せなくて作文も小論文も嫌いだったなと思い出した。自由に書いていい、は嘘と思っていた。

深夜の美しい自然風景の番組をながめながら、忘れていたことを思い出す。なにか返事をすべきだったが言うことはやはり思いつかないのだった。こういうことに内面は必要ないんじゃないかとある時から思っていて、わりと実践していられたのがこの数年であって、その歪みがでてきているという気もした。いろいろにたずねたいこともあり、しかしそれによって今まで放棄していたものを要求するのはずるいような気がした。そんなことにより、言葉も心も尽くせないのはもっとひどいとも思えた。

「正解」はたぶんわかっていて、遂行は可能なのだけど、いろいろな理由をつけてしなかったし、なんにせよ自分で身を切っていかないといけない、という気がした。しかしこれも、「正しさ」に向かわせられてるだけということはないのだろうか。内面のないまま進む方向もあるのだろうか。というような。

わたしは、迷っている自分のこともまあまあ好きなのだけど、不幸ぶらないように、ということは言い聞かせて、注意深く点検していきたいと思った。思っている。こういう気分が「小説にネガティブを持ち込まない」と通じるのではとか思ったり。