紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


広がるブルーっすね

「すごく良い」と「すごい良い」だとわかりやすくて、後者は間違っている(といいやすい)。「すごくダイエット効果がある」と「すごいダイエット効果がある」だとどちらが正しいと一言ではいいにくい。「すごく」は「ある」にかかってる(ので、「ダイエット効果がすごくある」の方が好ましい)、「すごい」は「ダイエット効果」にかかっている。そういえば、ダイエット効果というお菓子があると思ったけれど、チョコレート効果の間違いであった。……ということをちょくちょく思うが、実際に口にしたことはなかった。正しい文章が良い文章とはかぎらず、「すごく」を文頭に持ってきてしまう雰囲気とか勢いをくみたいと思ったりする。誤用が蔓延した世界では形容詞(もしくは副詞)がどこにかかるか最後までわからなかったりして、口語もしくは文語が流れる時間を楽しめる。訂正は確定ののちに施される。間違っていても(たとえば「すごい良い」だって)なんかその頭でっかちのアンバランス感がイトオシイような気がしてしまう、っていうのは好みのお問題? いつ書いてもいいと思ってたことを今日は書いた。

保坂和志を読んでいることの続きを書こう。といっても今日は出かけていたので一文字も読んでいない。単著を読むのははじめてなのに、あれもわかるこれもわかると思うことがあり、わたしの中にすでに保坂和志的なものがあったのだなぁと名前をつけたりしている。ずっと昔に、宣言、という文章を書いていて、それを広く柔らかくしたようなものがかなり根本にあると思ってナツカシイのだった。

小説にはネガティブな方向に行きたがる傾向があるということが書いてあって、だいたい賛成ではあるのだけど、小説以外にもいろんなものが暗くカナシイ顔をしたがることがあるように思う。というのを少し前に書いた。それで下書きをみてみると、陰に立って気取っているような歌の歌詞がメモしてあって、ハハンこれねとなった。それが悪いとはまったく思わないのだけど、自分にもそのニヒリストぶる部分があるのが良いのか悪いのかというようなことを考えた。考えている。こたえはどちらでもない(もしくはどちらでもある)、のだけど、ワルイ、にしなくてはいけなそうな状況や心情が今はあるのだった。はてさて。今日はちょっといろいろ秘密にしておきたい気分。