紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


カテゴリー、忘れちゃえば。

 

fktack.hatenablog.jp

 

F氏のブログを読んだ後に、その記事の長さにもよるけれど、右側に記事のカテゴリーが見える。のでそこから気になったカテゴリーに行くことがあるのだけど、このカテゴリー名の適当でなさがすごい(褒めてます)。基本的に何が書いてあるかわからないカテゴリーの一覧ページに飛んで、そこからカテゴリーあんまり関係ないじゃんっていう記事を読む(カテゴリーの名付け方についてはF氏も釈明している)。それで、わたしはかなりの確率で「テキストベースボール・テキストフットボール」というカテゴリーを選んでしまい、そこには記事がひとつしかないからその記事は何度も目にしている。このカテゴリーを選んでしまうのは高橋源一郎の『優雅で感傷的な日本野球』というタイトルが頭をかすめるからだと思うが、わたしはこの小説の内容をまったく覚えていない(読んだはずなのだけれど)。

最近になってようやく気づいたのだけど、読書とか講義とかについて、わたしは大体のことをまったくといっていいほど憶えていなくて、感覚というか○○な感じ、くらいでしか記憶していない。印象的なシーンがあれば憶えているけれど、それも時間の経過によってぼんやりしてくる。ただ、「あんまり覚えてないけど、また観たい(とか読みたい)」「最後の方でなんか良いシーンがあったんだよね」くらいのぼんやり加減でも残っていれば、また観よう(読もう)と思えるし、何度も楽しめるからいいかなと思えてきた。

それで、前述のエントリも内容をおぼえていないから何度だって新鮮に読んで、そのうちにだんだん思い出してきて、「あーこういう話かー」ってなる。のだけど、ブラウザを閉じたとたんにサッと消えてしまい、印象だけが残る(でもこれはわたしの記憶の性質の問題だけでなく、F氏の文章の性質も関係があると思う)。しかもこの記事を読んでいるとデジャヴのような感じで、近所の狭い道を抜けて大通りに出る場面が頭の中に浮かんでしまい、それが毎回なので、この記事はわたしの中では大通りに出た途端に視界が開放されるイメージになってしまった。イメージはなかなか忘れられない。それで、その日はいつもの呪縛から逃れられて、テキストベースボールではないカテゴリーにたどり着けたのだった。

さて、当ブログにもカテゴリーをと思ったことがあるのだけれど、結局実現していない。「写真」と「短歌」だけが膨らまない腹を抱えてずっと体育座りしている。わたしの性格的にカテゴリとか分類とか大好物ではあるのだけれど、どうせ忘れるために書いてあるのだし、参照性なぞ捨てておけと投げやりに思っている。たとえば「同居人」というカテゴリをつくってきちんと分けておいたら、くま氏のファン(いるのだろうか)は喜んでそれを眺めればいいのかもしれないが、それだけをお手軽に読んで消費されるのではという危惧をして、それならばこの不親切対応でいきたい。現状ほぼオンタイムで読んでくださる方にはおそらくあまり関係ないだろうという判断もある。わたしが書いているのは日記だし、思考も日常も曲がりくねって全体を形成しているのだ。ということをとりあえず書いておこうと思った。