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紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


閑寂

中原中也の詩をとつぜんに思い出し、口の中で頭の中で心の中で何度か反芻してみる。詩は好きだが、好きのラインナップがミーハーなのでそのことはあんまり言わないでいる。中原中也谷川俊太郎が好きだ。たぶん他にも好きな詩人はいるのだけれど、今は出てこない。

中也の詩はかわいていてべたべたしない。さっぱりとして、適切な距離をもって、わたしの中に入ってくる。詩ではないけど、安部公房を読んだときは湿度高いなって思ったんだった(『箱男』とか)。

突然に夏がやってきた。何もしなくても体力がすり減っていくのを感じるけれど、精神は(今のところは)覚醒している。過活動になりそうだ。でも身体はつかれているから、あれも書きたいこれも書きたいというのを考えながら沼のようなねぶりへ。すぐにでも。身体と精神の居場所の違いから、もんやりしたあわいのようなところにいる感じがする。ここでもそこでもない、ここではないどこかへと、薄皮一枚の不思議な場所だ。

先日書いた記事で紹介した本が売れた(言い方よ)。べつにわたしの本ではない。のだが、編集長、売れました! という気になる(報告先は編集長でいいのだろうか)。ブログで書いたから、ブログで「買いました」と書かれたのを読んだ。とはいえ、わたしの卓越した筆致でもって買わせたわけではなく、ふたりともその雑誌の潜在的読者であって、わたしは背中を押しただけなのだけど。そう、わたしは謙虚なのです。

書くものや読むもののことで、他者と交流するなんて想像もしていなかったので、そういうのはブログを書いていてよかったと素直に思うことだ。

お返しに、というわけではないけれど、他に紹介されていた雑誌をわたしも読んだ。すばらしいエセーが載っていて、そこにも日記のことが書いてあった。わたしが書いているもの、書くものについて考えてしまう。ただしい言い方をすれば、文章に上下はないのだ(ろう)けど、やはり、そこには、"好み"では片づけられない、上手さというものがあるようだった。

一年間ここで書いてみて、書く主体としての自分のことはまあまあわかってきた。定点観測的な気づきだ。鍛錬になっているのかはわからないけれど。自分のこと、書かれるもののこと(そいつはぬるぬるしてウナギみたいだ)、その限界など(けっきょく、インターネットだから全部を置いておける、というのは幻想だった)。

ただ、わたしは"上手になった"のかははなはだ疑問だ。一年も続けたのだから上手になっていたい。この上手というのは文章の熟達ということでなく、書くことで自分がどう(良い方に?)変わったか、変われたか、ということだ。上手に書きたいというより、自分が変わりたい、変わっていたい、ということなのかもしれない(ここは論理の飛躍がありますね)。書き手と書かれたものの間の相互作用というようなものを信じているようだ。

この文章は仕事中に隙を見つけて書いている。不良社員である。

その悠長さとは裏腹に今日は山場と決め込んで、夏ヴァージョンのレッドブルをキメた。心拍数が上がっているけど気にしない。