紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


かなしみの所在よ

きゅるきゅると現実にもどっていく。もどされていく、の方がいいか。表現には気を遣いながら、そんな感じである。先週末の三日をとある勉強の会につかった。

どういった会なのかを書いた方が理解が進むとも思うのだけれど、理解が進むって誰のじゃいという気もするし(ここは所詮個人の日記よ)、できるかぎり固有名詞を除いて書こうと決めているので、そこにはふれないことにする。

そこで、facebookを交換せねばならないという事態に際し、これも正しくいうならば交換”せねばならない”ということはなく、それに賛成したのはわたしの意思であり、それはまあ好奇心というか、怖いものみたさもあり、絶賛放置中である不毛のfacebookを見られる方が問題なのではないかという気もしつつ、でもたぶん、そうした多くの人々にとって、facebook、空気のような感じなのだろうと思い至る。呼吸するように自然に考えたことや行く場所などを吐き出していく。わたしは、そこになにかを書いて、それが何人もの知人のタイムライン? に反映されるというのが恐ろしくて、なにかを公開しようという気持ちにまずなれない(facebookが空気みたいな人たちにとったら何百人のうちのひとりがなにを言おうが言うまいが誤差の範囲なのだろうとも思うのだが)。そしてそこにいいね! の嵐。サムズアップがほしくて、投稿するわけではないと思いながらもそれを気にしてしまうだろう自分の心性に疲れてしまうのだった。いつもながらの尾っぽとり。阿呆だがほほえましい柴犬の仕草と想像してほしい。

いやこんな卑屈なことを書くつもりはなかったのだけど。わたしは内面を書くような恐ろしさ(承認欲求の裏返しでしょうか)があるのだけど、facebookを皮膚と思えるような人がつるつると空気を吸い込み吐き出したりしているのだろうと感じたのだった。

久しぶりすぎて、友人がおそるおそるコメントをくれて、そういえば三年ほど音沙汰なかったものね、ここ一年はブログで内面を吐露していたのです。とは言わずににごす朝方。どこまでいっても日陰者な感じがしている。

しかしまあ知人がfacebookに写真と二言三言書くだけで、情報の頒布と多くの賛同を得ているのを見ていると、夜中に粛々と1,000文字2,000文字書いてアップしていることとの差を感じますね。勝っている負けているの話ではないけれど、本当に同じ世界を生きているのかという感じがすることよ。

さてそこで、人々の左脳側が、言葉がたいへんに強いことに驚いて、家に逃げ帰りたくもなったのを、へらへらとなんとかやり過ごしたことだった。言葉が強いというのは、怒声とか罵倒ということではなく、自分のすべてを言葉であらわすことができるという強気、非常に賢く勇敢な現代人の姿をみたのだった。いったら、頭でっかちということだ。

そうそして、かなり多くの人々が自分の家族(夫や子ども)のことを当然あるべき自分の一部として認識し、切り離していないということにも驚いたのだった。その、批判という気持ちはなくて、自分以外の人間を自分の人生に織り込んで考えることが想像できないので、うーん。たぶん(女性は)お腹をいためて子を産んでしまったら、それは他人と思えないのだろうけど。そうなんだろうというくらいの想像しかできない。自分はまだまだ未熟だと思うけれど、熟したとしてその境地に達せる気は全然しないのだった。

本当に。ほんとうに。否定から入ってしまうのをもうちょっとどうにかしたい。

すべてが終わったあとに、忘れていたことをいくつか思い出した。そのひとつが父方の祖母が亡くなったときのことで、母方の祖父が亡くなったとき(わたしは中学生だった)のことはかろうじて思い出すのが、それより新しく親しかった祖母のことをずっと忘れていたのだ。そしてほかにも。自分の中にかなしみがあることを発見して、無意識というようなことをやはりまた思い出して、言葉だけでは生きていけないという気持ちになったのだった。